⑪平櫛田中研究一一〈五浦釣人〉を焦点、に一一研究者:岡山県立美術館学芸員柳沢秀行はじめに「岡倉天心の思い出については,私は亡くなった横山大観はじめ,いろいろな人から聞いているが,平櫛田中ほど純一無垢に,信仰にも近いような気持で,この稀代の指導者について語るのを聞いたことがない」と今泉篤男は述べている(注1)。この言葉のとおり平櫛田中は終生,岡倉天心への敬慕の念を示し,そして天心の姿を〈五浦釣人〉〈岡倉天心像〉〈鶴撃〉の三種の像に刻んでいる。なかでも,東京美術学校校長の座を追われた天心が,太平洋に面した茨城県の五浦海岸で,横山大観,下村観山,菱田春草などとともに研讃の日々を送る姿を,やはり天心ゆかりの美術史家ラングドン・ウオーナー(注2)撮影の写真をもとに制作した〈五浦釣人〉は,天心に対する平櫛のオマージ、ユのみならず,日本美術院草創のエピソードをも具現化したオブジェとして,平櫛田中と岡倉天心,そして日本美術院の深い関りを端的に物語る要素に満ちている(注3)。ところで,〈五浦釣人〉は1930(昭和5)年の第17回院展出品作を手始めに,以後45年近くにわたり木彫5体さらにはブロンズ2体の計7体もが制作されている。このうち5体の木彫は,いずれも岡倉天心の没後50年,生誕100年など,天心あるいは日本美術院に因縁深い年に制作されている。この事実の確認は,平櫛と岡倉天心を幸吉ぶ物語の磁場をより強力に補完することにもなろう。ただ各像がかかえる個別の情報にあたれば,用いられた材や表面の仕上げ方,あるし刈土顔部のディテールと言った点で,これら各々の作品は,それぞれ異なった複数のイ乍品であるという当然な確認に至る。しかしながら,一つずつ具体的に挙げることはしないが,これまで数多く出版された作品集や展覧会図録における幾多の作品解説において,そのほぼ全てが〈五浦釣人〉は平櫛と岡倉天心そして日本美術院をめぐる物語という観点ばかりから観察し意味づけられてきたといって過言ではない。見事にその物語の強力な磁場に回収されているσコである。ただそれだけならばいい。問題なのは,そのために実際には複数存在する像があたヵ、もテクストを語るための一つのオブジェ,同じーっの像であるかのように扱われていずらちょうじんおかくらてんしんぞうかくしょう-147-
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