〈フ守口ンズ〉/台座背面彫銘「皇紀二千六百三年春聾中悼太郎拝作之j〈茨城大像〉〔図3〕1962 (昭和37)年/236.0cm/茨城大学所蔵/同作品完成記念展(東京,三越)出品後,翌年の第48回院展出品/彫銘なし〈岡山像〉〔図4〕1963 (昭和38)年/113.0cm/岡山県立美術館/完成後直ちに岡山県に寄贈/台座表面彫銘「天心先生」,台座背面彫銘「昭和美卯六月成九十二翁中拝刀J〈ボストン像〉〔図5〕1963 (昭和38)年/113.0cm/ボストン美術館/完成後直ちに同美術館へ収蔵と推定/台座表面彫銘「天心先生J,台座背面彫銘「昭和美卯八月廿二日後学九十二翁停太郎拝万j〈井原像〉1970 (昭和45)年/236.Ocm/井原市立田中美術館/完成後直ちに同美術館敷地内へ設置/台座背面に彫銘「五浦釣人昭和庚戊口口月廿五日九十九翁卓悼造壬寅(以下,判読不明)」〈福山像〉1975 (昭和50)年/224.0cm/福山市/完成後直ちに福山駅前に設置(二)〈五浦釣人〉各像の制作の経緯と制作年の意味について01930 (昭和5)年〈一九三0年像〉同年5月に日本美術院の創立経営者同人であった下村観山が亡くなる。また横山大観が日本美術院内の停滞状況を指摘し,以後翌年にかけて美術院解散も検討されるなど,まさに美術院に大きな動揺が走った時期であった。こうした中で平櫛は新たに美術院経営者に加わって組織運営の中枢を担うこととなり,そして院展に出品したのが〈五浦釣人〉であった。その制作動機を具体的に伝える資料はない。ただこの状況からするに,日本美術院にとって神とも言える天心の姿,それも草創期の苦難の時代の天心の姿を持ち出すことことで,あらためて美術院における天心の超越者としての位置づけを強力にし,その下での同人達の結束を固めょっとする戦略的な意志を見ることは可能であろう。い-149-
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