ずれにせよ,この年の〈五浦釣人〉制作は,天心の遺徳を継ぐべき日本美術院の動揺と無関係とは思われない。ちなみに翌年には東京美術学校敷地内に,退任する正木校長発案により〈岡倉天心先生像〉を制作,設置している。01943 (昭和18)年〈東京芸大像〉この年は天心没後30年。前年に財団法人岡倉天心偉績顕彰会が文部省より認可され,様々な天心顕彰の事業が推進された。平櫛も同会の監事及び評議員,維持会員となり,第29回院展にはボストン時代の天心像である〈鶴警〉を出品。そして1943(昭和18)年に〈東京芸大像〉を制作することとなるが,この年の平櫛は戦時に対応して組織修正された新文展の審査員となったこともあり(出品はせず),恒例となった院展へ一点も出品していない。従って本作品は,制作直後に公開された形跡はなく,その後1950(昭和25)年になって,平櫛の他の自作やコレクション作品とともに東京芸術大学に寄贈されている。01962 (昭和37)年〈茨城大像〉01963 (昭和38)年〈岡山像〉〈ボストン像〉1962 (昭和37)年は天心生誕100年,翌年が天心没後50年にあたる。すでに茨城大学は,五浦周辺の天心に関わる遺跡の移管を受け整備を進めていたが,天心生誕100年を記念する作品の寄贈を平櫛に依頼した。それを受けて平櫛が発案,制作したのがこれまでにない大型の〈五浦釣人〉=〈茨城大像〉であった。同作品は1962(昭和37)年12月東京日本橋の三越における完成記念展で披露された後,翌年9月第48回院展に「岡倉天心先生没後五十年記念特別出品」として公開(注4)' 11月に同作品を収蔵するために新設された茨城大学五浦美術研究所天心記念館開館とともに同所に収蔵された(注5)。まさしく天心生誕100年,没後50年をあわせて記念する像であった。こうした大作制作の影で,1963(昭和38)年の6月と8月に〈岡山像〉〈ボストン像〉が完成している。〈岡山像〉については,同作品完成直後に寄贈を受けた岡山県総合文化センターの当事者達の談話が残る(注6)。それによれば,岡山県関係者が1962(昭和37)年新規開館した岡山県総合文化センターへの作品寄贈を申し出たところ,平櫛の側から〈良寛〉なら手持ちの作品をすぐに渡せるが,その時に制作中の〈五浦釣人〉が完成したら同150
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