Fhu でO米原雲海,山崎朝雲の影響下に西洋彫刻に範を求めた再現性の高いスタイルで,このように各像ごとに原型から作り直されていること,そして前記のように各像毎に制作年が彫銘されていることは,類似した複数の像とはいえ,各像それぞれを個別のオリジナルとして扱うべきであるという主張を補完しよう。四平櫛作品スタイルの変遷と作品生産のパターンすでに筆者は平櫛作品の展開について,1907(明治40)年の岡倉天心との出会い,1914(大正3)年からの日本美術院研究所での人体研究,そして1931(昭和6)年頃からの彩色の始まりを3つの展開点として区分し論じたことがある(注13)。この時期区分をもとに平櫛のスタイルの変化を概略する。まず1898(明治31)年高村光雲工房を訪れた時から1907(明治40)年第l回文展ま日常の身辺にいる子供などを主題とした時期である。作品数は極めて少なく,また石膏原型のままとめおかれた作品も多かった。次に第l回文展直後岡倉天心に出会い,1913(大正2)年天心逝去まで直接に薫陶を受けた時期。作品の主題は劇的な変化を遂げ,日本や中国の歴史的な故事や禅問答などを取り上げ,その象徴的な場面を大仰な身振りで表すようになる。またこの時期以降,作品がほぼ必ず木彫として完成され,また毎年二,三点ずつが安定して展覧会へと出品される(注14)。次は,再興日本美術院に参加し同院の研究所でモデルを使つての人体研究の期間を過ごすことで,それまでの床間サイズの小型なものから,等身大のスケールを獲得する1914(大正3)年以降の時期。この成果として世に間われるのが隆々たる等身大の肉体を誇る〈転生}(1920年)である。もっとも材料費や道具の消耗費,そして長い制作期間を保障する経済的な安定カ宝待られなければ,これだけの巨大な作品は,そうそう制作出来るわけではない。以後毎年の院展には像高lm前後の作品ー,二点を出品し,時折像高2m前後の大型作品が制作される。次の展開点は,1931(昭和6)年鶴ヶ正八幡宮の白幡神社に奉納した〈源頼朝公像〉,そして第四回院展に出品された〈後藤徳乗像〉に始まる彩色の採用である。〈後藤徳乗像〉を「著色度を誤り,万のシノギを失消されて泥人形と化した」(注15)'「著色の為に万痕の快味の失われたのを惜しむ」(注16)と評されたこともあり,当初
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