鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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① 同名同形同サイズの像が複数制作されたケース。は素地が透けて見える薄塗りなども試されるが,以降に制作された作品はほぼ全てに木地を露出させない彩色が施されている。彩色への移行についてはその動機を確定出来ない(注17)。私は以上の三つの展開点に,あと一つのゆるやかながら確かな起伏を加えれば,平櫛の作品スタイルの変遷をほぼ画定出来ると考えている。それが弟子達を抱えての1950(昭和25)年頃からの工房化である。実際〈五浦釣人〉で見たように,その作業量の大半を平櫛本人が担うか,あるいは弟子が担うかによって作品は異なる。さらに作品の生産量からすると,平櫛晩年に小型の彩色像が増産された感があるが,ただこうした作品は個人コレクターのもとに分散していて,その総体を確認することができないから,あくまで実証的に確定した事実ではない。さて最後に,こうしたスタイルの変遷に複数像制作のパターンを重ね合わせてみる。まず1907(明治40)年までの作品は,その後,類似像が制作された形跡はない。次に天心に直接薫陶を受けた時期の作品だが,初めて天心に認められた作品である〈活人箭〉第一作が海外流出するため,その作品から急速コピーを制作したケースなどもあるが,平櫛の複数制作の代表格とも言える〈尋牛〉〈灰袋子〉その他にも〈落葉〉など,その後に繰り返し類似像が制作される作品は,この時期のものが多い。それに比すれば,院展研究所時代の作品やその後の小型作品は類似像の制作はまずない。ただ〈転生〉〈烏有先生〉〈西山遺遥〉〈鏡獅子〉など大型作品が登場すると,当初からその試作として公開もされた同形の小型作品や,形状にバリエーションが加えられた作品が制作され,また大型像完成後に改めて同形の小型類似像が制作される。それと平行するように天心に直接薫陶を受けていた時期に,木目を露出させた作品として第一作が制作された〈尋牛〉〈灰袋子〉などが,彩色が施された作品として再び制作されることとなる。これが平櫛田中工房の形成とどのように関わるかは,後の課題とせねばならない。さて以上のような平櫛の類似作品の複数制作は,およそ以下の四つのケースに分類できる。② 同名同形同サイズながら,素地の木目が露出した像と,彩色が施された像が制作されたケース。(大半は木目露出作が,第一作で,彩色像が時期を隔てて制作される)156

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