鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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(5) 茨城大学への収蔵についての経緯は都崎雅之介[平櫛田中先生と茨城大学」『茨城(6)小野啓三「五浦釣人j,大熊文治「田中先生の思い出「五浦釣人」像」いずれも(7) 平櫛は自作を尺単位で構想しており,〈茨城大像〉を七尺八寸の像と呼んでいた。(8)首は当初制作したものがひび割れてしまい新たに材を替えて作り直したことな(9)前掲『茨城大学五浦美術文化研究所報第8号平櫛田中追悼特集』所収の稲村(10) かつて筆者は匿名の個人所蔵作として,同作品を実見。現在は所在不明。(11) 平櫛田中「私の歩いて来た道(上)J『日本美術』14号(日本美術社1959年)(15)脇本楽之軒『東京朝日新聞』1931年9月7日大学五浦美術文化研究所報第8号平櫛田中追悼特集』(茨城大学五浦美術文化研究所1981年)などに詳しい。『百八歳平櫛田中翁』展図録(井原市立田中美術館1980年)所収。平櫛田中「七尺八寸の「五浦釣人」」『平櫛田中私の歩いて来た道.I(日本美術社1973年)どが,前掲平櫛田中「七尺八すの「五浦釣人JJに伝えられている。また,現状を観察すると,分割されたパーツの接合部分にずれが生じ,内部から接着剤が注入され,外部は埋木が施されている。退三「平櫛先生車中談」および後藤末吉「茨城県関係平櫛田中作品(彫刻)Jに記載。ただし筆者が実見したところ確認は出来なかった。同この経緯については拙稿「近代木彫の一断面一一米原雲海・山崎朝雲・平櫛田中の明治三十年代一一」『MUSEUM.I515号(MUSEUM出版1994年)参照。帥拙稿「そろそろ蹄分の時か「平櫛田中」と「美術J」『碓山美術館報』第18号働珠山美術館1997年同この時期の平櫛田中,そして米原雲海,山崎朝雲の活動については,前掲の拙稿「近代木彫の一断面一一米原雲海・山崎朝雲・平櫛田中の明治三十年代」同坂井犀水『国民新聞』1931年9月14日同前掲「そろそろ断分の時か「平櫛田中」と「美術」J参照。また平櫛の彩色作品については,前掲『茨城大学五浦美術文化研究所報第8号平櫛田中追悼特集』に所収の後藤末吉編「平櫛田中彩色彫刻抜粋jが詳しくこれは各作品について制作年の他に彩色年と彩色者が明記されている。この他にも同号には後藤による,収蔵目録と年譜が掲載されている。これらは,その実証的根拠は不明確ながらも,158

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