鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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一162-⑫ グレヴィ政権下のサロン一一モネそして五姓田義松の場合一一研究者:武蔵大学非常勤講師吉川節子はじめに1881年,エドゥアール・マネ(1832-1883)にレジオン・ドヌール勲章が授与された。マネの叙勲の背後には時の文部大臣アントナン・プルースト(1832-1905)の尽力があったことは,知られた事実である(注1)。マネとブルーストは中学校からの幼友達で,マネがトマ・クテュールに師事したときも二人は連れだってクテュールのアトリエに通っている(注2)。ブルーストは絵心はあったものの職業としては画家を選ばず,1876年には共和派の代議士となり,政界入を果たした。ジ、ユール・グレヴイ大統領のもと,ガンベッタ内閣が組織された1881年11月14日,プルーストは文部大臣に指名された。しかしながら急進的なガンベッタの内閣は短命で,わずか二ヶ月後には交替を余儀なくされ,したがって文部大臣ブルーストも同じ時に退陣することになるのだが,この二ヶ月という非常に短い在任期間にブルーストはマネの叙勲を実現させたのである。近代美術史に占めるマネの重要性を考えれば遅きに失したと言えようが,問題作を発表し続けてスキャンダルの火種であったマネを思えば,叙勲にはブルーストのパックアップは不可欠であった。時はかわって1877年。年も押し詰まった大晦日,ギュスターヴ・クールベが亡命先のスイスで失意のうちに他界した。普仏戦争に続くパリ・コミューンに参加しヴアンドーム広場の円柱引き倒しのかどで巨額の賠償金を課せられたクールベは,1873年故国を後にして以来,祖国復帰を夢に見ていたが,1878年1月3日,ついに故国に受け入れられることなくスイスのラ・トウール=ド=ペルスに埋葬された(注3)。ところが,彼が他界してまだ日も浅い1882年,クールベの代表作〈オルナンの埋葬〉があのlレーヴル美術館で展観され,さらにこの年クールベ回顧展がパリの国立美術学校(エコール・デ・ボザール)で開催されたのである。生前には帰国さえ許されなかったクールベの作品の唐突なルーヴル入りやエコール・デ・ボザールでの回顧展の陰には,クールベと同郷のジュール・グレヴィ大統領(注4)や当時美術行政に携わっていたレアリスムの擁護者カスタニャリ(注5)の支援があったからにほかならない。このように,マネの背後にはアントナン・ブルースト,クールベにはジ、ユール・グレヴィといった時の大統領や文部大臣の存在が語られてきたが,彼らは幼友達,同郷

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