鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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の政治家といった個人的なレヴェルの関係で言及されることが,多かった。つまり,マネやクールべといった当時「前衛Jと見なされていたアーテイストが相次いで、叙勲やエコール・デ・ボザールでの回顧展(注6)といったかたちで公に受け入れられたのは,「たまたま」幼友達や同郷人が要職についていたからに他ならないと。たしかに,中学時代からの親友が,しかも芸術に造詣の深い友達が文部大臣に就任し,二ヶ月間という極めて短い任期中に異例のスピードで勲章を授与したのであるから,個人的な好意という見解は否定できない。しかしながら,マネやクールベが1880年代初頭に堰を切ったように政府に認められ始めた背景には,単なる親友,同郷人といった私的な関係ばかりでなく,政治的背景があったのである。マクマオンからグレヴィ政権へ1870年普仏戦争が勃発し,第二帝政が崩壊したフランスは第三共和制を宣言する。流血のパリ・コミューンを鎮圧して初代大統領となった共和派ティエールは,国家再建を目標とし,1873年にはドイツへの賠償金も皆済した。しかし,共和制を尊重するテイエールは王党派と対立し,1873年には失脚する。かわって第三代大統領となったのがマクマオン元帥であった。マクマオンは生粋の王党派で,ブロイ大公を首相として共和派を弾圧し,強硬に「王政復古」を目指した。「共和制」という名ゆえにともすれば看過されがちであるが,実際にはマクマオンは王政を復活させるためのあらゆる努力を惜しまなかったのである。彼のもとで,いかに王党派が勢力を伸ばし共和派が抑圧されていたかは,たとえば,1878年6月30日に国民の祭日として祝われる「平和の日j制定の経緯に象徴される。この年聞かれた万国博覧会に関連して第三共和制樹立後初の祝日が制定されることになり,日取りの最有力候補は7月14日の「パスティーユ記念日jであった。しかしながら,この日取りはルイ十六世をギロテインに送った革命を想起させ,王党派には到底賛成できる日ではなく,結局,政治的に無色な6月30日に決定された(注7)。したがってこの祭日は,まれにみる政治的な透明度を反映して「平和の日J(Fete d巴laPaix)と名付けられた。しかしながら,共和派に厳しい弾圧を加えていた王党派マクマオンも1879年1月,上院で共和派が圧勝したのを機に辞任に追い込まれ,代わって共和派のジュール・グレヴィが大統領となった。グレヴィの大統領就任により,王党派は完全に共和派に屈服し,ここに共和派が上院,下院,大統領という権力の三機関を掌握し,議会共和制-163-

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