がフランスにおいて確立されたのである(注8)。翌1880年には,パスティーユを記念する7月14日が国民の祝祭日として制定され,その前夜にはパリ・コミューン大赦が実施された。また,1792年にパリへ駆けつけるマルセイユからの義勇兵が歌った「マルセイエーズ」も公的の場では歌うことを禁じられていたのだが,国歌として選定された(注9)。サロン改革共和派の新路線が打ち出されたグレヴイ大統領のもとで,美術行政は文部大臣ジ、ユール・フェリ,文部次官エドモン・テュルケに委ねられた。ヴェッス,ルースらが近年究明したように(注10),両者は改革を行い,サロンも当然,その対象となった。新政権のもとで変更されたサロン制度は数多くあったが,本論では特に審査員の選挙者数に注目してサロン改革を眺めてみたい。審査員を選挙する資格を誰に与えるかという審査員の選挙権は極めて重要な問題であった。選挙権が多数の芸術家に与えられれば与えられるほど多様な傾向をもっ作家が審査員に選出される。審査員の多様性は当然,彼らが審査する作品にも反映されるから,新しい絵画を目指す作品が入選しやすくなることは言うまでもない。政治における選挙権と同様,サロン審査員の選挙権も多数の人物に与えられればそれだけ「民主的な」選挙になるのである。比較のために,グレヴイ新政権発足以前のサロンの審査員選挙権を見てみよう。マクマオンが大統領であった1873年5月から1879年1月までの5年8ヶ月に,文部大臣は数ヶ月間隔でめまぐるしく交代したが,美術長官はほぼ一貫してフィリップ・ド・シュヌヴイエールであった(注11)。1820年生まれのシュヌヴイエールは,第二帝政期,美術界に君臨したニウヴェルケルク伯爵の片腕としてサロン運営に手腕をふるった人物である。侯爵の爵位をもっシュヌヴイエールは1889年に浩i翰なメモワールを出版し,「民主主義はわたしにいつも恐怖を抱かせたjと記している。そうした彼が,マクマオン政権下で再びサロン運営の表舞台にたつことになったのである。彼の采配で開催されたサロンの審査員選挙権を調べてみると,多少の異同はあるものの,おおむね美術アカデミー会員,美術部門でのレジオン・ドヌール勲章受勲者,ローマ大賞受賞者,もしくは過去のサロンでのメダ、ル受賞者に限られていた。一方グレヴィ新大統領のもとでは選挙権は大幅に拡大される。シュヌヴイエールが選挙権を与えていた上記の資格者のほかに,過去のサロンにおいて佳作賞を受賞した164
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