鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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作家および過去に三回以上サロンに入選経験がある作家が,新たに,審査員を選挙する資格を獲得したのである。この改革により,エドゥアール・マネ,そしてのちに詳しく述べる印象派の画家クロード・モネも選挙権を得ることになった。絵画部門の審査員選挙で実際に投票した画家の数を追って見ると,〔表I〕(注12)のようになる。マクマオン政権下シュヌヴイエールのサロンでは200人前後の画家が審査員を選んでいたのに対し,グレヴィ新政権発足後,テユルケがサロン開催の当事者となってからの投票者数は飛躍的な伸びを示し,5倍の約1000人の画家が投票した。王党派から共和派へと政権交代した当時の政局が美術行政に明確に反映されていたことをこの数字は雄弁に語っている。フェリ,テュルケはこのように,審査員が多数のアーテイストによって選挙される,「聞かれたjサロンを目指していた。そして彼らはともに新しい絵画の理解者であった。両者はルノワール(18411919)の肖像画で名高いシャルパンティエ家のサロンの常連であり(注13),ちょうどこのころ,テュルケはルノワールに夫人と令嬢の肖像画をイ衣頼したと言われている(注14)。他方,フェリは1879年7月27日にとりおこなわれたサロンの授賞式で,従来の絵画とは異なった新しい絵画を歓迎する演説を行った。ドラクロワ,ドーピニー,テオドール・ルソー,コローを近代絵画の英雄として賞賛したあとで,文部大臣フェリはつぎのように述べたのである。「まったく新しい絵画が生まれつつある…それはかつて絵画が追求してきた真実,つまりアトリエにおける真実をもはや目的にはしていない。新しい絵画は移ろいやすくとらえがたい真実,それゆえ親しみ深く魅力的な真実を表現しようとする。この真実をわれわれは今,大気の真実と呼ぼう…」(注15)サロンの授賞式では講評をかねて文部大臣が演説を行うのが慣例であったが,フェリは「大気の真実」をその中で称揚したのである。これは印象派の画家たちを大いに力づけたにちがいない。新しい絵画に理解を示すフェリ,テュルケがサロン改革を進める中で,こうした変化に敏感に反応した画家は多数存在したと推測されるが,モネもその一人であった。ここで簡単にモネとサロンとの関係をふりかえってみよう。1865年24歳の時に念願の初入選を果たしたモネは,66年のサロンにはのちに妻となるカミーユ・ドンシウをモネ-165-

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