鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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ハhu等身大に描いた〈カミーユ〉〔図I〕を送り,好評を博している。この作品は1868年,『ラルテイスト』誌編集長アルセーヌ・ウッセによって買い上げられ,ウッセは当時の近代美術館,リュクサンブール美術館にこそふさわしい作品として絶賛した(注16)。1867年のサロンには〈庭の女たち〉とほかに海景画を送るが,この時は両作品とも落選。続いて1868年のサロンには,風景画を二点送り,一点のみの入選であった。1869年には海景画および雪景色を描いた風景画を送ってサロンに挑戦したものの,双方落選の憂き目をみた。1870年には〈カミーユ〉を所蔵するウッセがサロン運営に直接携わる美術総監になった(注17)ことに鋭敏に反応し,久しく人物画をサロンに送っていなかったモネが,〈カミーユ〉と同じく人物画〈昼食〉〔図2〕(注18)を送るのである。〈昼食〉とともに風景画もl点送り,慎重に成功を期したが,審査員ドーピニーらが辞職する波乱含みの審査の末(注19),結局,両作品とも落選となった。ここで確認しておくべきことは,1865年に初入選を果たしてから普仏戦争が勃発する70年まで,モネは毎年サロンへ作品を送り続けていたという事実である。ところが,1870年のサロンの後,モネはサロンへの出品は一切しない。サロンでは沈黙をまもっていた彼が全精力を注いだのが1874年から開始された「印象派展」だ、った。ところが,最後のサロンから10年,意外なことに1880年になると今度は一転して印象派展へは不参加を決め込み,モネは,再びサロンに挑戦することを決意するのである。モネが初入選を果たした1865年から80年までのサロンの絵画部門の審査員選挙で投票した画家の数を調べてみると,〔表I〕のようになる。1868年から70年の第二帝政末期のサロンでは投票者の数が増えるが,これは1863年に73%の支持率を誇っていたナポレオン三世が69年には支持率45%に低下した結果,懐柔策として審査員の選挙権を「過去のサロンの入選経験者」にまで大幅に拡大したからである。ナポレオン三世失脚後,第三共和制になり,シャルル・プラン(注20),シュヌヴイエールがサロンを開催するようになると,再び選挙資格の制限は厳しくなり,投票者数は激減した。そしてグレヴィ新政権が発足する。文部大臣フェリ,次官テユルケのもとで投票者数が劇的に増加したのは,先に見た通りである。興味深いことに,モネが10年の沈黙を破って再びサロンへの応募を決意したのは,審査員の選挙資格が緩和された年であった。この時,モネは3点作品を用意し,熟慮の末,「ブルジョワ的で気が利き」サロンに受け入れられやすい〈ラヴァクール〉〔図3〕と〈解氷〉〔図4〕を送るという戦術に出たことはモネ研究者には知られた事実で

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