あるが,作品の選択においてだけではなく政局の変化に対しても,モネは非常に鋭い感覚を働かせていたのである。もっとも1879年もフェリ,テユルケの采配のもとにサロンは運営され選挙資格は緩められていたから,何故モネは1879年のサロンに出品しなかったのかという疑問が残るかもしれない。事実,〔表I〕で明らかなように1879年のサロンでも960人もの画家が投票していた。この理由として,1879年のサロン規約の発表が遅れたことを一因として挙げることができる。五月に初日を迎えるサロンの規約は通常,開催年の前年の秋,遅くても開催年の一月には発表されている。事実,モネ初入選の65年のサロンでは規約発表は64年の11月,翌66年のサロンは65年の10月だった。ところが1879年のサロンでは,1月30日にマクマオンからグレヴイへと政権交代があったため,規約の発表は大幅に遅れることになった(注21)。フェリが文部大臣に就任したのが2月4日,テユルケが次官に任命されたのは明けて5日,両者は差し迫ったサロンの開幕に向けて急速,規約を草稿したが,発表にこぎつけたのは,実に2月末日だ、った。作品審査や展示など会場整備に要する期間を差し引くと,5月1日に初日を迎えるサロンの作品提出期間はいかに遅くとも3月下旬が限界で,実際この年も3月17日から28日と決められた(注22)。したがって普通は規約発表から提出期間まで数ヶ月かけて応募する作品を準備できるのであるが,この年にかぎって準備期間は異例の短さであった。サロン自体もこうした事情を鑑みて例年5月1日の初日が12日に延期されたが,それで、も作品を準備するのに数週間しかなかった。こうした事情からサロンを見送った画家が多数存在したであろうことは容易に想像できる。実際,1879年のサロンの入選作は5895点であり,規約が12月に発表され準備期間も例年のように数ヶ月間になった翌80年のサロンの入選作7289点と比べて著しく少ない。モネのように準備期間の短かった79年のサロンを見送り,80年のサロンに挑戦した作家はおびただしい数にのぼった。またモネの個人的な事情も79年のサロンを断念した背景には存在する。66年のサロンで大好評であった〈カミーユ〉のモデルとなった妻が1879年9月には長い闘病の末に亡くなった。79年のサロンが開催された春,モネは重病の妻を抱えてサロンどころではなかったにちがいない。実際,74年から熱心に出品し続けてきた印象派展も,79年の第四回展にはカイユボットの度重なる要請でやっと腰を上げて参加した有様であ-167-
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