鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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。。った。しかもモネは第四回展の準備期間中に一度もヴ、エトゥイユからパリに出向かなかったし,開催中も自分の作品が展示されている第四回展を訪れた形跡はない(注23)。これは79年の春,すなわちサロンの開催期に,モネが重病の妻を抱えて心身ともに疲労の限界に達していたことを示唆している。断念した79年のサロン授賞式で文部大臣フェリが「大気の真実Jを称揚したことは先に述べたが,翌80年のサロンでは絵画部門の一等メダルが一本増やされて合計4本になり,しかも増えたメダルは風景画・動物画・花の絵・静物画に与えられるという新たな条項が規約に盛り込まれた(注24)。風景画を得意とするモネにとってこれほど幸いなことはない。先述した美術長官ウッセの件でも明らかだが,モネは情勢の変化には至極敏感で、あった。第三共和制樹立後,モネは政局情勢を観察し続けていた。グレヴィ共和政権下のサロン改革で,モネ自身も審査員選挙権を手にし,1000人近い画家が審査員を選挙するようになった。それまでのサロンとは異質の「聞かれたjサロンが実現されたのである。雌伏10年,注意深く2点の風景画を用意したモネは,i荷をt寺してこのサロンに臨んだのであった。五姓田義松「聞かれた」民主的なサロンを目指して改革を行ってきたフェリ,テュルケは,1881年1月17日,サロンの民営化を決定する。これまでサロンは行政監督下にあったが,独立した「フランス芸術家協会」に運営を任せることになった。90人のアーテイストからなる実行委員会が創設され,ここで規約等すべての事柄が決定された。審査員の選挙権はフェリ=テユルケ路線よりさらに拡大され,過去に一度以上入選した作家すべてに与えられることになった(注25)。このようにサロンをめぐる美術行政はグレヴィ大統領政権下でめまぐるしく移り変わった。こうした変化は海を隔てた遠い日本とは一見何ら関係が無いように思われている。ところが,予想に反して,明治の画家,五姓田義松にもこうした変化は大きな影響を与えていたのである。五姓田義松は日本人として初めてパリのサロンに入選した輝かしい経歴の画家である。1881年のサロン・カタログを見ると,出品番号2844番にはGOC並DA(Yochimathi),ne a Tokio (Japon) , elとvede MM. Wacman et Bonnat (東京(日本)生まれ,ワーグマン及ぴレオン・ボナの弟子)と明記されている。1855年画家五姓田芳柳の次男として

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