鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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誕生した義松は,10歳でチャールズ・ワーグマンに弟子入りし早熟な才能を示した。1877年に上野で聞かれた第一囲内国勧業博覧会では,洋画家としてはただ一人,二等の鳳紋章を受賞している。因みに彼より30歳年長の高橋由ーは花紋章(三等)であった。翌年には明治天皇の北陸・東海道巡幸に随行し,また皇后陛下の肖像も制作している。このころの義松は宮廷画家として目覚ましい活躍をしているが,1880年にはさらなる画業の向上を目指して,一路パリへ向かった。8月26日,パリ到着。その後ルーヴルで模写などをしていたが,日記によれば翌1881年2月3日,レオン・ボ、ナ(注26)のアトリエに入門した(注27)。そして5月2日(1日は日曜日)に閉幕したサロンに見事,入選を果たすのである。ここで義松の1881年のサロン入選を今一度考え直してみると,非常に不可解なことがある。先にも述べたが,サロンの作品提出は審査・展示などに時間を要するため3月に締め切られる。この年もカタログを見ると,3月10日から20日と決められた(注28)。とすると,義松はボナに入門してからおよそ一月でサロンに作品を送り,入選を果たしたことになる。義松の日記を読むと,さらに驚いたことに,3月11日に「午前八時ヨリ始テボーナーノ聾皐校ヘ至ル」と記されているので(注29)ボナが開設しているアトリエの方に義松が顔を出したのは2月3日よりさらに遅かったことになる。3月11日,この日にはすでにサロンの作品提出が開始されていた。2月3日の師との出会いから一月余で,しかもほとんどアトリエに通っていないにもかかわらず,「ボナの弟子Jと登録してサロンに作品を送ったのは,極めて不自然である。義松の師ボナは81年のサロンでは,90人の実行委員会を選出した際に最多得票で選ばれ,また絵画部門の審査員選挙でも最多得票で選出されている(注30)。おそらくもっとも実質的にサロン運営に携わっていた人物の一人であろう。絵画部門の審査員会では副委員長を務めている。義松の入選に際して,師としてはもちろんのこと,審査員の側でも最も貢献した人物であったと想像される。ではイ可故,義松を,出会ってから一月しか経ていない義松を入選させたのであろうか。この答えが義松の溢れる才能にあったことは言うまでもない。けれどもフランスの美術行政の変化の中にも一つの答えを見出すことができる。1881年のサロンは運営を芸術家協会に任せたとはいえフランス共和国唯一のサロンであり,共和国フランスの「聞かれた」サロンを目指して国内はもとより海外にも,つまりタキ国人にも門戸を拡げる必要があった。サロン入選経験者すべてに審査員の選-169-

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