12窟において大層流行したセットであり(注27),インドやインドネシアの密教系作例手菩薩のセットは,中国や韓国ではあまり流行しなかったが,インドのエローラ第11・では多く見られる。以上のように,善無畏系による復原案は,寵室全体の統ーと調和に相応しい配置でもあり,二菩薩ずつの関係においても完成度が高いことがわかる。このような配置は偶然によるものではなく,明確な典拠に基づいて配置させたものであり,その典拠として善無畏系の八大菩薩が用いられた可能性が極めて高いことが推測される。また,善無畏系による復原案に従って禽室像の当初の構成および各像の原場所を復原すると,〔表2〕のようになる。すなわち,現在第⑥寵と第⑤禽に安置されている維摩居士と文殊菩薩は,それぞれ現在空いている第①寵と第⑬寵からの移坐であり,八大菩薩を構成する八体の菩薩像も,〔表2〕のように,除蓋障菩薩,観音菩薩,および金剛手菩薩は移坐せず,当初の配置通りであるが,地蔵菩薩,弥勤菩薩,および文殊菩薩は移坐されており,虚空蔵菩薩と普賢菩薩は亡失していることが推測される。さらに,現存する造形作品における善無畏系中期密教の新羅伝来についても,韓国の毘慮遮那仏像の台座における七頭の獅子の表現が『尊勝仏頂修瑞伽法儀軌』の影響と考えられるので(注28),新羅伝来は確実で、あると思われる。また,伝来時期についても,755年完成の湖巌美術館蔵「新羅華厳経変相図」中の智拳印を結ぶ毘慮遮那仏像の現存によって,8世紀半ば頃にはすでに伝来していたことが確認できる。「新羅華厳経変相図」は皇竜寺の縁起法師の発願によって,754年に作り始め755年に完成した「八十華厳jの変相図である。現在破損がひどくて分かりにくいが,腕の形や左腕の腕釧,管釧,垂髪,僅かに見える天衣,そして台座の蓮弁と返花の聞に残っている凹頭の獅子などから考えて,中尊は七獅子蓮華座上に坐する菩薩形の毘慮遮那仏であると思われる。善無畏撰「五部心観」の大量茶羅の金剛界大日知来とほぼ一致するこの図像は,年代的に考えれば,入唐して善無畏に中期密教を学び,740年前後に帰国したと思われる不可思議や義林などによって伝来された可能性が大きいと思われる(注29)。以上のことから,石窟庵寵室が造営された8世紀第三4半期には,すでに善無畏系の中期密教が,善無長に師事した不可思議,義林,玄超などの入唐新羅僧たちによって新羅に伝来し,その経軌に基づく作品も制作されていたことは明らかである。また,『大日経』や『尊勝仏頂修瑞伽法儀軌』には,八大菩薩の各尊に対する明確な図像規定8
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