挙権を与えることによって一段と民主化は進んで、いたが,さらに外国人を積極的に入選させることによって,国内外に「開かれた」サロンを印象づける方策が採られたのである。事実,この年のサロン・カタログを見ると,作品の提出時に「国籍」を記すこと,という一項目が第5条に付け加えられている。この条項は読む人の注意を喚起するように大きな斜体文字で記されている。パリのサロンは,もともと外国人にも聞かれた場であったが,「国籍jを記すことを義務づけることは以前のサロンではなかった。実際にサロンの入選者の中で外国人の占める比率を計算してみると,それまでのサロンではコンスタントに外国人比率は15%であったのに対し,81年のサロンでは22%に跳ね上がっているのである。外国人を多数入選させ,「聞かれた」共和国を誇示する意図が,この数字からうかがわれる。こうした方策を反映してか,義松の入選作は外国人の作品であることが一目でわかるような,〈日光の滝〉,〈熱海の海岸の岩山〉,〈箱根〉,〈宮ノ下の風景〉,〈日本の農婦〉という異国情緒豊かな作品ばかりである。81年のサロンは芸術家団体が開催し,運営方針も以前とは異なる展開をみたが,その中で外国人の処遇も大きく変化したのであった。絵画部門の実行委員であり,審査委員会副委員長でもあったボナは聞かれたサロンを目指す新サロンの方針に従い,外国人を積極的に受け入れ,折しも入門してきた義松に突如日本の作品を準備させてサロンに入選させたのではなかろうか(注31)。グレヴィ政権のもとでフランスは議会共和制が確立した。王党派マクマオン政権と比較すると,共和制は格段に成熟したと言える。マネやクールベの回顧展が国立美術学校で開催されたのもグレヴィ政権下であり,美術政策の変化は明らかであった。モネはこうした変化に意識的に反応し,他方,極東の島からパリに留学した明治の画家,五姓田義松は知らぬ聞にこの渦中に巻き込まれることになったのである。1主これはマネの画業形成過程を知る上で貴重な文献となった。(1) たとえばAdolph巴Tabarant,Manet et ses oeuvres, Paris, 1947, Chap. 51 (2) プルーストは晩年,マネとの長年にわたる親密な交友を『マネの想い出』に綴り,(3)彼の誕生100年である1919年に,クールベの遺体は故郷オルナンに戻された。(4) ジュール・グレヴィ(1807-1891)はフランシュ・コンテ地方出身で,1871年ド170
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