(5) カスタニヤリ(1830-1888)は『ラルテイスト』や『シエクル』で健筆をふるう(6) マネの回顧展もエコール・デ・ボザールで1884年に開催されている。(7) 1878年5月1日,パリで万国博覧会が開幕した。普仏戦争,パリ・コミューンで(8) 第三共和制確立過程に関しては,柴田三千雄,樺山紘一,福井憲彦編『世界歴史(9) 柴田三千雄,樺山紘一,福井憲彦編,前掲書,p.130ウー県から代議士に選出された。美術批評家であったが,1874年パリ市議会議員,1879年パリ市議会議長,1887年には美術長官(Directeurdes beauxs -arts)に就任している。打撃を受けたフランスにとって,万国博覧会は内外にその順調な復興を誇示するまたとない機会であった。盛大に開催される万国博覧会に関連して国民の祝日を定めようという世論が持ち上がり,第三共和制誕生以来初めて,政府が祭日を制定することになった。と,ここまでは比較的スムーズにことが運んだのだが,肝心の祝日をいつにするか,という日取りの決定が世論を分ける大問題に発展したのである。第三「共和制」であるから共和制の最も自然な祭日としては7月14日の「パスティーユ記念日」が挙げられる。しかしながら王党派マクマオン大統領は,「パスティーユ記念日」はブルボン王朝を崩壊させルイ十六世をギロテインに送った草命を思い出されるとして,はなから反対で、あった。ヴォルテールの命日,5月30日も一つの選択肢であった。1878年はフェルネの長老,ヴォルテールの死後ちょうど百年にあたり,祝日の候補となったが,7月14日の「パスティーユ記念日jと同じ理由で王党派には到底受け入れることのできない日であった。5月30日もまた失格となった。喧々嵩々の議論の末,選ばれたのは6月30日である。ぴ出された。つまり6月30日には不思議なほど政治的な色合いがなく,王党派が心安らかに国民の祭日に決めることのできる「無色jな日であったのである。6月30日の「平和の日」についてはTheodoreReff, Manet and Modern Paris, Chicago, 1982, chap. 9およびJaneMayo Roos,“Within the ‘Zone of Silenc巴’:Monetand Manet in 1878”,Art Histoη,September 1988, pp. 372-407に詳しい。大系フランス史3j山川出版社1995年,第三章,および中木康夫『フランス政治史(上)j未来社1975年,第三部中の第一章を参照した。6月30日は積極的な理由で選択されたというよりはむしろ,消去法によって選-171-。。美術行政と画壇との関係はこれまで論じられることは少なかったが,PierreV aisse,
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