同Tucker,前掲書,p.44サロン運営に直接携わる美術総監(Inspecteurg白eraldes Beaux -Arts)に就任したことに力を得て,数年来風景画を送り続けていたモネにしてはめずらしく,再び〈カミーユ〉と同じ人物画〈昼食〉をサロンへ提出したものと思われる。側1812年生まれのプランは第三共和制でも美術館長をとつめた共和主義者であり,第三共和制初の美術長官を務めるが,美術に対する思想、は古典主義的で,古今の美術名品のコピーを展示する「コピー美術館J(Musee d巴Scopies)の実現に在任中没頭した。コピー美術館に関しては,AlbertBoime,“Musee des copies”,Gazette 凶サロン規約の発表日はカタログに掲載されている規約の末尾に記されている。各年のカタログを参照してこの結論を得た。たとえば1879年に関しては,カタログ,p.CVI 伺1879年のカタログ,p.ICp.259 同90人の実行委員会については1881年サロン・カタログ,pp.LXXXI LXXXXIV,審査員の選挙権についてはp.XCVIIIはパリへの同船者でもあり,百武は1878年にはパリでボナに師事していた。青木茂「油絵初学明治十三年(上)(下)一一五姓田義松の場合」『緒』137号,138号1975 間以上五姓田義松の経歴に関しては,神奈川県立博物館「五姓田義松年表」『明治の宮延画家一五姓田義松』神奈川県文化財協会1986を参照した。同青木茂編・校注,「五姓田義松の滞欧関係資料」『1981年度神奈川県立近代美術館年報Jp.41 信81881年サロン・カタログ,p.Cdes beaux -arts, Octob巴r1964, pp.237〜47 (23) Ronald Pickvance,“Contemporary Popularity and Posthumous N巴glect”,TheNew Painting : Impressionism 1874 1886, The Fine Art Museums of San Francisco, 1986, (2の1880年サロン・カタログ,p.CXIV173 。。義松がボナに入門したのは百武兼行の紹介であろう。以前から面識のあった百武。。1881年サロン・カタログ,p.LXXXII, p. CV 。功サロンにおける外国人の処遇に関して,現在,筆者は研究を継続中である。
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