の側面が強調される小島であるが,紀行文以外にも「晩秋の自然と風景画J,「不二山の絵画に就きて」,「自然描写の芸術j等,同時代の文学・美術と風景との関わりについて論じたエッセーを数多く残している。上の引用で彼は,自然の魅力を翻訳し伝達する絵画の効用について述べているが,その後で,自分が信州、|の風景を好きになったのもまた,ある画家の作品に触れたことがきっかけであったことを告白している。その画家とは,明治30年代から40年代に一世を風廃した水彩画家の一人,丸山晩霞であった。1867年に長野で生まれた晩霞は,本多錦吉郎の画塾彰技堂で洋画を学び,のちに吉田博との出会いを通して水彩画に取り組むようになった。彼は,自らの故郷である信州の山々を肱渉し,清澄な色彩で多くの山岳風景を水彩画に描いている。当時信州、|の雄大な自然は多くの画家を惹き付けたが,その中には,晩震と同じく水彩画を専門とする大下藤次郎や三宅克己の姿もあった。小島烏水によれば,丸山晩震や大下藤次郎が登場する以前に,富士山を除いて,穂高,白馬といった高地に取材した洋画は存在しなかったというが(注2),その意味で,信州の風景は,彼等水彩画家によって発見されたと言うことができるかもしれない。だが,彼等が信州、|の自然を「風景jとして描くことができるようになるには,好余曲折を経ねばならなかった。画家の眼もまた,過去のイメージに縛られているのである。日本近代の風景画の歴史は,画家が過去の風景画の形式から抜け出して,自らの目で新しい風景を発見していく過程にほかならない。水彩画家,三宅克己は「余が抑も最初水彩画なるものを手に為せしは,明治二十二三年頃なりしが,当時水彩画と為て描くべき画は,道路の両側に榛ある田舎道か,然らざれば破れたる農家に限れるものの如く信じjていたという(注3)。それは当時の洋画界を代表する明治美術会の展覧会で出品された風景画の典型であった。とりわけ小山正太郎の不同舎で学んだ画家が描く風景画は,画面中央に道路を配した構図を取ることが多く,それを榔撤して「道路山水jという呼称すら生まれた。不同舎出身の画家中川八郎が,風景画を描く上で,「最初に浸み込んだ癖は中中抜けないもので,一種の不同舎しきと云ふ様な型が除れぬので困る,構図の上に於て特にそれを感ずる,どうも同ーの型になり易いので困るj(注4)と述べていることからも,当時の画家が,「道路山水」という一種の風景の型からなかなか脱却できなかったことがうかがわれる。日本人画家が,こうした過去のイメージの束縛から離れて,身の周りの情景の中に178
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