風景画の題材を求めるようになるのは,明治23年と25年に相次いで来日したイギリスの水彩画家,ジョン・ヴァーレー・ジュニアとアルフレッド・パーソンズの作品を観てからのことである。三宅克己は,パーレーが明治24年に芝慈恵病院で開いた展覧会を見たときの衝撃を次のように語っている。パアレイの写生画は,…知何にも日本特有の色彩が現れていて,実際朝夕自分が往来して目に親しんでいるその場所が,恰も鏡にでも移っているように鮮やかに写生されていたのだから驚かざるを得なかった。同様の油絵水彩画の展覧会ではあるが,彼の明治美術会のそれ等と比較しては,一方は遠い距離より眺める人物の影のよう,パアレイ先生の作画は,何だか自分の足許の地面のものを見せつけられるようで,何れの画にも活き活きとした血の動きがきらめくように思われたのであった(注5)。また,アルフレッド・パーソンズの水彩画展に接した丸山晩霞もまた「其頃西洋画と言へば暗い慎んだもの、やうに思って居ったときこの鮮明な細かい純写実の画を見たのであるから驚からずにはゐられなかったのである。」(注6)と,その時の興奮を伝えている。しかしながら,今度はこのイギリス人画家が描いた風景画が,新たな風景の見方として画家の眼差しを固定化してしまったのである。以上の事情を,再び三宅の言葉にもとめると,其後余は吾固に来遊せし外人の水彩画を観て,更に一層面白く感たるが,其時又新に画題の方向を転じ,多く神社仏閣或は市街の状況などを主題と為せしなり。而も当時にありて水彩画を描くもの,画題は必ず寺門,石灯篭,鳥居,五重塔等何れも当時外人の選択せし画題に由らざるは無かりしなり。而して開潤せる原野の知き,或は又眺望際限無き海原の如き,これ等は其実景を望みて甚だ爽快に感ずるに不関,絵として描く可からざるものと…信たるなり(注7)。ょうやく,三宅が言及する広がりのある雄大な風景が,主として水彩画家によって描かれるようになるのは,明治30年頃のことであった。それゆえ,晩震と同様,山岳風景を得意とした吉田博の「小諸付近から長野方面を見渡した広い景色を描」いた風景画に対して,次のような批評が書かれたのである。-179-
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