1う宝あるものと,記されていないものがある。石窟庵寵室の八大菩薩において,図像の規定がない菩薩について,当時流行していた図像を取り入れた可能性が大きいと思われる。例えば,思惟相の弥勅菩薩については7世紀に流行した弥勤菩薩半蜘思惟像の影響が考えられるし,僧形の地蔵菩薩についても当時の流行図像が導入されたものと思われる。また,図像の規定がある菩薩の中でも,観音菩薩などは当時の流行図像の導入が考えられる。すなわち,石窟庵寵室の八大菩薩は,八大菩薩という概念や配置{立置,金剛手菩薩などの新たに伝来された菩薩については,善無畏系の八大菩薩の図{象が規範となったが,一方,八大菩薩のうち,すでに新羅に伝来し流行していた菩薩については,善無畏系の図像ではなく,既存の流行図像を用いた可能性が指摘できると思う。ネ吉詰命にかえて韓国最高の仏教遺跡である石窟庵の主室の高室にある八体の現存像をもって,各像の尊名の同定および性格の究明,また造営当初の場所を含む配置の復原を試みた。復原によると,当初十体あった像は,維摩会を構成する維摩居士と文殊菩薩の二体,および善無畏系に基づいた密教の八大菩薩の八体であった可能性が浮かんできた。さらに,石窟庵主室の寵室には,維摩会を構成する維摩居士と文殊菩薩をそれぞれ入口左右に配置させ,本尊の左右に四体ずつ八大菩薩を配置させた可能性が大きいことや,八大菩薩の配置に善無畏系の八大菩薩の配置方式が用いられたこと,各尊の図イ象の選択においては当時流行していた菩薩はそのまま取り入れ,伝来していなかった菩薩については善無畏系の図像を用いたことが考えられる。以上の推論が正しければ,石窟庵に善無畏系の中期密教(八大菩薩)の影響が取り入れられたことになり,アジアにおける八大菩薩の図像の成立と伝播,さらに今後の石窟庵の本尊の性格および石窟全体の性格,さらに制作年代を考えるうえで,一つの重要な手掛かりになると思われる。であり,国宰金文亮(金文良)の子とされる。金文亮の家門は真骨であり,金氏王族の親類にあたる。このような家系を念頭におけば,国家的大事業であったとY王( 1) 金大城(金大正,700〜774年)は,景徳王治世前半に大相(中侍)を勤めた人物-9-
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