つ。2 水彩画の流行頗る雄大な構図で,当時の我が国の洋画界に於いては,実に大胆な試みであった。其時分はどれも景色の一小部分を取って画く風があって,そんな大きな景色を画いたものはなかったのである(注8)。このように,現在の我々にとっては自明な風景観,それはつまり,周辺の断片的な光景にも,あるいは広大な海原や,山並みにも「風景jを見いだすことの出来る我々の感性のことであるが,それは,近代の画家達が,過去の風景表現の呪縛から抜け出して新しい風景を模索していた,その蓄積の上に成立しているのではないだろうか。そして,いわば風景のヴォキャブラリーを増やしていく歴史的過程において,これまで登場してきた水彩画家達の貢献は少なからぬものがあったように思えるのだ。大下藤次郎は,世間でフk彩画を楽しむ人が増えているにも関わらず,その方法を初心者にも分かり易く説いた書物がないことから,自ら筆をとって明治34年,『水彩画の某』を発行する。本書は,望外の反響を呼ぴ\出版された年だけでも6版を重ね,約2万部を売った。それでも,世の水彩画熱はおさまらず,本書は,明治37年までに15版を重ねるベストセラーとなったのである。では,なぜ,この時代に水彩画は,かくも人々の心を捉えたのであろうか。明治30年代の時代背景の中で,水彩画の果たした役割を考えてみると,その流行も,ある必然性を持っていたように思われるのだ。本章で、は水彩画流行の要因を探ってみたい。まず,当時の人々がどんな経緯で水彩画を始めるに至ったかを,大下が明治38年に水彩画の流行に合わせて刊行した雑誌『みづゑJの読者の寄稿欄から抜き出してみよ「写真では物足らぬ」野に山に写真器械を携へて出た時に,…ピント硝子に映じた景色の美しいこと。されど,之が原板となり,印画となって,現はれたる頃は,もう,一枚の墨画に過ぎぬのだ。あはれ天然の色彩はいづくにか消えて,棄てがたき自然の調子に床しき名残を止むるのみである。ぁ、何とかして,此の天然の色彩を其のま、に紙上に止める工夫はないかしら?山上,木石-180-
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