(三宅克己が明治35年に二度目の渡欧から帰国すると)其頃は我国にでも洋画が漸く歓迎せらるる機運になったので,君(三宅)は外人を相手とせず,真面目に風景画を画きても世の鑑賞を受くるに至り,展覧会の出品は必ず売約済となる。是より先君は時勢を察し,其スケッチを版に付して発行せしが,画を好める学生聞に第喝采を博し,続て絵葉書の流行となり,君の版画は都都到る処に歓迎せられ,君の名海外に普ねく,博文館より発行する中学世界,女学世界の口絵は,君が独占の姿であった(注13)。(明治)36年から7年8年丁度日露戦役の前後のあの頃が日本の過去に於ける最も水彩画の全盛期であった。其の最も流行児は三宅,大下,丸山の三君で其の作品が盛んに絵葉書等に印刷されて其の名が喧伝され且つ水彩画の趣味が普及された。それにつれて此の頃から素人でさて,このように写真であれ,水彩画であれ,各地の風景のイメージが雑誌の口絵や絵はがきを介して,人々の眼を楽しませたということは,既に日本各地の名所風景に関する知識が広く共有されていたことを意味する。近代の出版文化の発展が,こうした日本国内における情報の共有化を可能にしたのであろう。明治30年頃には,書籍取次店網の全国的な整備と,郵便制度の拡充が進み,全国規模の読書市場が立ち上がったとされるが,そんな中で,大資本を背景に,明治の出版文化をリードする巨大な出版社が登場する。言わずと知れた大橋左平によって創始された博文館である。ここで,博文館の名が挙がるのは,唐突に思えるかもしれないが,「水彩画と近代日本の風景」という我々が考察している主題と博文館の活動とは密接な関係があるのである。試みに,博文館の杜史から,旅行案内記,紀行文,絵はがきなど,「風景jに関連すると思われる事項を列挙してみよう。明治25年野崎左文,田山花袋著『漫遊案内』発行明治33年23版明治36年改訂増補35版出来明治27年『日清戦争実記』創刊,その紙上で小川一真の勧めに従って,日本で初めての写真銅版による風景挿図を掲載した。明治28年『太陽』創刊。写真銅版口絵を多用し,視覚性を重視した編集方針。創刊年で平均10万部というけた違いの発行部数を誇った。編集長の大橋乙羽-183-
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