全12巻の出版に結実したのである。また,各地の名所風景の伝播ということでは,雑明治30年野崎左文著『日本名勝地誌J刊行始まる。毎月一冊のベースで,全12冊。明治32年大橋乙羽著『千山万水』発行美本の誉れ高い濡酒な装順,翌33年には明治36年明治37年明治40年月刊誌『鉄道汽船旅行案内』創刊こうした博文館の出版活動をみれば,当時いかに旅や風景に対する関心が高かったかが分かるだろう。博文館は,その体力にまかせて,日本の風景を蒐集し,カタログ化しようする意図があったようだ。それが,早くも明治30年の段階で『日本名勝地誌』誌『太陽Jが果たした役割も無視できない。博文館の販売網を通して全国に10万に及ぶ購読者を有していた『太陽』の影響力は絶大なものがあったが,その『太陽』の売りものであった写真口絵の中には,必ず各地の名所風景の紹介が含まれていた。それは,絵はがきの流行が始まる以前のことであった。以上のように,明治30年前後には既に,日本各地の風景写真が,雑誌の口絵等を通じて,大衆の目に触れていたのである。こうして風景への興味が高じた彼等が,次に自らの目で風景を見いだし,ついにはそれを記録しようと考えて水彩画に興味をもっ自ら口絵に使う風景写真を撮影している。広告に次のような紹介文あり「日本名勝地誌は毎編色刷なる各道の地図及精巧なる西洋木版及び写真銅版を挿入して本文の説明を補い読者をして坐ながら,名勝風景風俗等を知らしむ全文平仮名附きにして婦女子にも読み易き全書なりj『続千山万水jも出版田山花袋著『南船北馬』発行これらの紀行文集にはいずれも巻頭に数十枚の風景写真が挿入されている。『大日本地誌』編纂開始明治37年l月〜大正4年5月まで計10冊坪谷善四郎著『日本漫遊案内』上・下発行大正まで、版を重ねた日露戦争後盛んになった絵葉書流行に乗じて博文館印刷所の理事大橋光吉が日本絵葉書会を設立,『はがき文学』創刊三宅克己,大下藤次郎,丸山晩霞,中津弘光,中村不折の手による水彩画の絵はがきを発行184
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