〜13頁(2) 『三国遣事』巻第五,孝善第九,大城孝二世父母,神文代条(3) 文明大『韓国彫刻史J,悦話堂,1980年12月,207頁(4) ・文明大「石窟庵仏像彫刻の研究j,東国大学校博士学位論文,1987年(5)朴亨園「統一新羅時代の降魔触地印像の流れについて」『美学美術史研究論集』第(6) 『三国遣事J巻第五,孝善第九,大城孝二世父母,神文代条に記されている石窟庵(7) 現存しない二寵内の像については,「日本による植民地時代に日本に搬出されたと(8) 文明大氏をはじめ多くの研究において,移坐の可能性が指摘されている。(9)文明大氏は尊名の同定において,移坐の可能性を指摘しながらも,左右対称的な推測される仏国寺の大増築や石窟庵の造営の総責任者として金大城が選ばれたことも不思議ではないと思われる。−黄寿永『石窟庵J,芸耕産業社,1989年3月・金理那「石窟庵仏像群の名称、と様式についてJ『精神文化研究.148号,1992年,12−萎友邦「石窟庵仏教彫刻の図像学的考察」『美術資料』56号,1995年12月,34〜40頁15号,名古屋大学美学美術史研究室,1997年12月,103〜116頁参照。の造営期間,すなわち,大相(中侍)金大城が,景徳王代の天宝10年(751)に現生二親のために仏国寺を,前世爺嬢のために石仏寺を創建し,大歴9年(774)12 月に金大城が亡くなったので,国家が完成したといっ記録における8世紀第三4半期における造営とほぼ一致する。いわれるJとする日本搬出説がある(黄寿永『石窟庵.1,270頁)0また「巷間に大正二年窟内の土中から三躯の石像が発見され,何れへか失はれたとする説は信濃するに足らぬ。」とする意見もある(朝鮮総督府編『仏国寺と石窟庵.I)。植民地という歴史的な事情による両意見について,どちらの説を取るかは,筆者としては非常に微妙なことであるが,ここでは民族的な感情を控えて,客観的に考えたいと思う。すなわち,本論を進めるうえで,上記の二禽内の像は現存しないとのことに文献記録の上でも尊名や図像的な特徴を探すことができないのが現状であるとの前提は変わらないことは確かで、ある。もし二像が現存するならば一刻で、も早く世に出ることを期待するとともに,元の場所に戻って欲しいと願う。配置に注目し,第②寵像と第⑨寵像においては第⑨寵像が普賢である可能性が大10
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