Fhu Y王(1) 草坪の生没年に関しては諸説があるが,ここでは,現時点でもっとも妥当であろ(3) 弘化3年(1846)制作。草坪の『撫古画式』に共通する図様を多く含み,また『撫(4) 全10図の数にとくに問題はないが,幾度かの改装がなされていること,季節によ(5) 高杉晋作(号東行)の所蔵印か。(6) 草坪の作品全体のなかでもこうした例はなく,草坪の通常のスタイルでもある。(7) 草坪の作品において,画面に掲げられた画題は,既成の漢詩より引用されたもの(8) 中国明末の画人。『撫古画式』には6図が掲載される。(9) 中国元末の四大家のひとり。『撫古画式』には登場しない。(2) 拙稿「高橋草坪の山水画の学習と展開J(『美術史』第147号)意識を反映した独自の画面を描出している。各国にみられた図様の借用や改変,組みかえなども,安易な姿勢からきたものではなく,図様の再構成をとおして自己の画面を模索した草坪の主体性のあらわれであり,彼の確かな造形感覚を証明するものである。また,各図における独創的な構図や描法からは,草坪の実体的描写にたいする関心を感じ取ることもできる。本画冊に比較的雨景が多いことも,「雨」というモチーフが,より現実性を帯びたものとして考えられたからであろうか。このように,草坪画の様ざまな要素を含んだ「山水画冊jは,草坪が新たな署名や印章を積極的に用いていることを含めて考えれば,当時の草坪の山水画法を集約したものであったと同時に,以後の草坪画の出発点となるものであったと位置づけることもできょう。しかし,翌年病に倒れ,その2年後に没した草坪にとって,その展開と形成をみせるための時間は,あまりにも短かすぎた(注22)。それでも,高橋草坪という画人が,豊後の南画史のみならず,わが国の絵画史に新たな一面を加え得るだけの豊かな才能を備えていたことは,この「山水画冊」の画面にふれるだけでも十分に知ることカ宝できるはずで、ある。うと思われる文化元年(1804)生まれ,天保6年(1835)没との説をとった。古画式』にはない「馨頭法」や「樹法jについてもまとめられている。り数が異なること,この時期草坪がよく描いた雪景の図がないことなどから,他の図も描かれていた可能性が全くないとはいいきれない。が多いが,本画冊の各図においても同様のことが考えられる。
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