鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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(10)頼富本宏『密教仏の研究j,法蔵館,1990年2月,612頁(14) 大正20675中(1司頼富本宏,前掲書,610〜611頁の表17参照きいので,第②寵像は文殊であろうとし,第③寵像と第③禽像については,第③寵像が観音であるので,第③寵像は勢至ないし多羅に,第④寵像と第⑦禽像については,法相宗的な思想、による弥勅と地蔵に,第⑤寵像と第⑥禽像は『維摩経』による文殊と維摩居士であろうとする(「石窟庵仏像彫刻の研究」,95〜105頁)。しかし,現存しない二寵像のことについてはまったく言及せず,全体の性格についても明確な言及がなされていない。朴亨園「エローラ石窟第十一・十二窟について一仏三尊形式の図像学的考察および金剛界大日如来像の紹介」『仏教塞術』233号,毎日新聞社,1997年7月,61〜109頁仰)党陸は,密教系文殊菩薩の図像のー特徴として考えることも可能であろう。ω 金剛智訳『金剛頂経蔓殊室利菩薩五字心陀羅尼品』に「作童子形,右手執金剛宝剣,左手持摩詞般若党葉」(大正20-710上)と「左手執青蓮華,右手執金剛蔵党爽行者己身為菩薩己」(大正20711下)とあり不空訳『五宇陀羅尼領』には「右持金剛剣,上発火焔色,左手持青蓮,有般若党爽」(大正20-715上)とあり,金剛智・不空系の文殊菩薩が金剛剣と党爽をもっ姿であらわされることがわかる。同頼富本宏,前掲書,610〜612頁仕紛この八大菩薩については,文中においても八つの菩薩の名称が記されていないので,どういう組合せのものか,またどういう経軌に基づいたものかは不明である。文中に見られる「神竜元年(705)Jを信用するならば,中期密教以前の八大菩薩のーっとなり,中期密教の八大菩薩であるとするならば,705年頃という年代は誤記となる。因みに,文中に見られる菩薩は「観音,文殊,地蔵,勢至jの四菩薩のみである。制朴亨園,前掲書,1997年7月同金剛蔵菩薩は,f十地経』などにも見られるし,胎蔵系の蔓茶羅では執金剛や金剛薩垂と同格視される場合が多いし,金剛界蔓茶羅の賢劫十六尊のうち,北方に位置する菩薩でもあり,金剛部の菩薩であることは確かであり,金剛杵をもっ点からも金剛手菩薩と同一尊格と考えても良いと思われる。-11-

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