し,鎌倉後期を主体としつつも,前期に逆上る数点が含まれることを確認した。未見のものは,醍醐寺本等まだ多いが,近世の写本を含め,なお今後新出する可能性は充分あるとの実感を得た。第二に,覚禅の人物像,『覚禅齢、』の史料的性格について,基本事項を解明する課題がある。これも容易で、ないが知り得た点を次節以下で記しておくことにする。また第三として,伝写研究の重要性があるので付記したい。覚禅自身について記す同時代史料は,『覚禅室長、J内部の記事以外には僅少である。自筆本が未発見であることは,なお人物像を把え難くしている。ただこれらのことは覚禅の人物像を暗に灰めかしている,と思えなくもない。新知見を踏まえ,少し考えてみたい。覚禅は,少納言阿闇梨と呼ばれており(『覚禅紗J「転法輪」など),父親は少納言かと推定されている(逸見梅栄「覚禅阿闇梨と釈迦文院蔵覚禅室長、」『密教研究J42,1931 年)。加えて,寛徳2年(1045)7月の神泉苑請雨経法の行事蔵人を勤めた「祖父但州j(「請雨経法上」)を覚禅祖父と見,五・六位ぐらいの官吏の家出身かと推定されている(中野玄三「覚禅伝の諸問題」,前掲書)。前者については疑う要素を見出せない。ただ,阿闇梨覚禅の濯頂師は勧修寺興然だが(『血脈類緊記Jなど),同じように師説を提供した醍醐寺座主勝賢との関係に検討課題が残る。勝賢の父は少納言藤原通憲であり,師弟が世俗上の同格身分であるとすれば,宗教界での活動の対照的相違について,あらためて注意せざるを得ないからである。後者については,覚禅が最も頻繁に引用する法務寛信(小野勧修寺流祖で鳥羽院近臣僧)の口伝書のうち,『祈雨日記J(『続群書類従』第25輯下)またはそれを引用した書,に拠ったらしい。「祖父担州」は,寛信祖父たる藤原隆方であり,承暦元年(1077)10月に但馬守となっている(『水左記』)。不明な点が余りに多いが,覚禅は,堂衆や下法師とは区別される学僧で,政治的優遇を含めて,秘密口伝書の書写を許される程の身分的地位にあったことは認められるであろう。ほとんど『覚禅紗』に限られるかの如き活動や,私見・創造を抑えた口伝収集の方針に照らして考えると,朝儀・先例等の文献的根拠を収集・蓄積する文官・史官の真言密教僧的形態と把えることが可能のように思える。実務官人の真言密教版,である。院政下真言宗が,国家機構の枢要を構成すべく優遇され,発展を遂げた2 覚禅の実像202
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