ことも参考にしたい。『覚禅室長、』以外の覚禅関係史料は僅少だが,皆無ではない。近年,覚禅の筆蹟と考えられる聖教が,2点紹介された。一つは,高野山宝寿院蔵『深沙大将菩薩儀軌』(高野山霊宝館『天部の諸尊J,1994年)であり,奥書に,文治三年九月廿一日於綾小路壇書所之とある。図録解説では覚禅自筆とする。もう一つは,随心院蔵『大毘慮舎那成仏経疏J巻第三(『随心院聖教類の研究』汲古書院,1995年)であり,奥書に,治承五年六月廿七日於東山草庵一両度複了二度校了覚禅と朱書する。加点奥書であるから本文は別筆である。解説で覚禅自筆と指摘され,朱による本文への加点(東大寺点)も重要史料だと述べられた。本研究でも原本で確認した。この2点の筆蹟は同一人のものと覚しく,今後,未発見である自筆『覚禅齢、Jの探査に際し,有力な手鑑となろう。すでに勧修寺本の調査では,鎌倉期写本の筆蹟について照合・検討し,多少消極的結果だが,自筆本を含まないことを確かめた。自筆聖教の探査は緒についたにすぎないがこのことは覚禅の人物像を知る上での一つの手がかりとなる可能性がある。右2点は,編集以前の聖教であり,僅直・正確な相承文献として,『覚禅紗』の未整序を含む集積的性質とは異なる。特殊な事業の遂行者としての覚禅を,真言僧の平均的姿の拡がりにおいて理解する道が窺い知れる。12世紀は聖教類が膨大に出現する時代である。宗教史研究では真言密教の秘密主義・口伝主義が,時代を蔽う特徴だとされ(速水佑『平安貴族社会と仏教』吉川弘文館,1975年),美術史研究では閉鎖的秘密主義の悪弊たる経軌軽視への反省から,図像集のような文献化が生じたとされる(『悌教塞術』70号諸論文,1969年)。しかし文学研究からの発言として,院政期を口伝から書記優位の時代への転換とする指摘がある(小峯和明「院政期文学史の構想j,『国文学解釈と鑑賞』第53巻3号,1988年)。文字の呪力という見方には疑問もあるが,文献としての聖教の必需性が一般化したのは確かであろう。しかもそれは一般的時代趨勢としての蔓延ではなく,中世寺院社会の身分制的求心構造に即した配分・伝授の枠組みをもち,求心核には秘密仏教を政治的に差配す3 『覚禅齢、J成立の時代相覚禅-203-
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