る権力意志をもった院が,半ば決定的役割を発揮することで推進された(上川通夫「院政と真言密教J『守覚法親王と仁和寺御流の文献学的研究』勉誠社,1998年)。覚禅の時代について言えば,後白河院との関係を見逃すことはできないのである。覚禅が引用する口伝は,鳥羽上皇の近臣僧寛信のものが多い。興然を介した伝授のほか,諸々の壇所で秘書書写の便宜を諸師から得たと推測されている(中野玄三「覚禅伝の諸問題」前掲)。後白河院の近臣僧勝賢を「師主権僧正jとして,その口伝を引用することも多い。中には,勝賢が後白河院の修法を担当した機会に,『覚禅室長、』のもとになる記事を得た場合がある。以下に後白河院との関係を記すものを年代順に列挙してみる。① 安元3年(1177)5月1日から6月18日まで,鹿谷事件を挟んで,後白河院の下命で、勧修寺行海が平家調伏を祈った(「転法輪J)。② 治承2年(1178)9月,勧修寺雅宝は王子(安徳)誕生を祈った。覚禅は,「以此等ノ正説等一巻ニ複之ヲ」と記す(「転法輪J)。③寿永2年(1183)9月12日から10月17日まで御室沙汰の下で勝賢が武家調伏を祈り,伴僧を覚禅が勤めた。覚禅は,閏10月5日に「集之畢」り,建久6年(1195)3月7日に「書写了jった(「転法輪」)。④寿永2年9月24日(③の最中),覚禅は勝賢より「究寛ノ秘事」を承った。文治2年(1186)5月に「撰集之jした(「求聞持J)。⑤寿永2年11月10日から同16日まで,後白河院の命で武家調伏が祈られ,勝賢率いる五壇のうちー壇を覚禅が分担した。その記録「蓮花王院百段大威徳供記」は,覚禅自らの著述部分。寿永3年2月19日,覚禅はこの修法について「抄之Jし,同24日に書写した(「大威徳J)。⑤元暦元年(1184)8月10日,覚禅は金剛夜叉法について,「日比之間所習口伝等集之為一巻」した。引用された年月日未詳後白河上皇院宣(請書)には,「近年兵革連々,闘乱無断ルコト,関東源家巧逆乱ヲ,人民不安穏,海西平氏企謀反,州牒不静誼J,とある。平家の西走(1183年7月)以後の形勢下で修されたのであろう(「金剛夜叉」)。⑦ 文治元年(1185)5月23日,後白河上皇院宣で,八万四千塔の造立分担が勧修寺等に命じられた。7月中に院庁へ奉請し8月供養予定とされた(「造塔法」。院宣は欠年だが,『山根記』文治元年8月23日条に,長講堂仏前で供養したと記す)。③文治三年(1187)3月,勝賢は,後白河院より,「義経尋出Jすための修法につい204
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