4 覚禅以後の『覚禅紗』て諮問を受け,仏眼法を指定して自ら醍醐寺で修した。覚禅は,同年5月26日に,折紙を撰集して一巻となし,7月3日に綾小路壇所で書写した(「仏眼」)。⑨ 建久2年(1191)閏12月14日から翌1月6日,勝賢は臨終近い後白河院のため増益の祈りを行った。覚禅はすでに文治3年(1187)10月12日に醍醐寺三宝院にて相承していたが,この機会のことを建久3年冬に「追書入之jれた。勝賢から同5年に伝得した(「駄都J)。およそ以上の記事を見い出しうる。真言宗界が世俗と没交渉で、ないのは明白で,権力中枢の動向を直接受けて活動し,それを契機に聖教が書写・類緊されている例である。純宗教的内実の固定的・慣習的な世代間継承文献,という誤認は宗教イデオロギーの実態視であろう。しかも『覚禅妙』の場合,治承・寿永の内乱前後の朝廷政治を領導する後白河の院政側に,ぴったり寄り添っている。平家との接点を微塵も見せない特徴は,傍証となろう。覚禅による多様で膨大な口伝文献の書写・類緊は,精力的かつ非創造的な活動で,著述の自己目的化とさえ見える。その前提として,特殊任務の遂行についての内面的自覚があったのではないか,と推測してみたい。後白河院側から見るとするならば,国政領導主体としての自己を,東アジアの政治世界に位置づけて権威正統化する理念は,擬似的な汎東アジア性と実質上の独自性を特徴とする仏教の統轄者たることで示された(上川通夫「顕密主義仏教への基本視角J『歴史の理論と教育』第97号,1997年)。院の下命で実施された修法を契機とする,口伝の書写や類来は,それを共有する集団の新たな規範として後代に機能することになる。武家政権の成立を含む内乱期をほぼその撰述過程とする『覚禅齢、』は,このような事情を離れては成立しなかったのではなかろうか。自筆本の所在については,その存否を含めて不明である。元来どこに置かれたものなのかについても定説がない。一方,現存本を見る限り,各巻の整序方法には不統一が目立ち,情報量の多寡も一様でない。目次・根本経典類・利益・本尊・先例・道場・道具・次第,といった編集スタイルに拠る巻がある一方,未整理・雑然たる巻がある。完成を見ずに生涯を終えたのであろうし,そもそも“完成”の目途は立てられなかったのかも知れない。増補・書込・重複などの未整序性は,現存本に見られる,様々な内容上の異同を誘205
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