鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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(大和国宇多郡)発させた一要因であろう。伝写過程で付加された記事を含む可能性もあるが,現段階では,二種の刊本以外の写本にどのような独自記事があるのか,個別に調査するほかはない。本文内容の異同のほか,伝写過程を記す奥書の分析も,ほとんど課題として残されている。『覚禅紗』受容の拡がりを,現蔵者だけではなく,かつての所蔵者についても知ることができ,系統的把握は真言宗史の実態理解に結び、つく筈である。たとえば,本研究で悉皆調査した随心院本の奥書からは,次のような書写場所が確認される。年代書写場所1246年法華山寺興慈院宝楼閉経など1257年光明峰寺1263年五条殿念諦堂釈迦法1269年神願寺1272年東小田原1273年八幡厳浄院1324年海龍王寺1325年田原本往生院1355年室生寺閑寂台般若菩薩法1379年濯頂寺本願院法華経法など1490年神護寺地蔵院請雨経法などこのほか年代不明の中世写本に,三輪・善法寺・八坂・吉祥苑,が見える。全巻揃っていたのかどうか検討を要するが,現存本をはるかに超えるかつての所在を想定して誤りなかろう。東寺観智院本「一字金輪J(南北朝時代写)奥書には,「右本先年自随心院門主照厳僧正与賜了」という賢宝の注記がある。別に,勧修寺本のうち16巻分は,元文3年(1738)から寛保元年(1741)に賢賀が全体を修理した際,欠本を東寺観智院本で補ったものであることが,書写・修補の奥書から判明した。現存諸本の複雑な形成過程のうちに,寺院社会史の具体相が潜んでいる。金沢文庫本は,称名寺2世長老釦阿が,元応3年(1321)に書写させたものである。銀阿は益性法親王から仁和寺御流を受けて,称名寺を関東真言宗の拠点に発展させた人物である。広沢流と『覚禅妙jの関係を示すものか。万徳寺本を有する愛知県万徳巻名造搭法愛染王法不動愛染王法六字経など太元法206-

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