寺は,南北朝期に国街領支配権を獲得した醍醐寺の流れである(『新修稲沢市史』本文編上,1990年)。中世の支配機構と不可分の本末関係に則して,『覚禅室長、』が流布した可能性がある。同時に,万徳寺本に独自記事が多く含まれることを思う時,未公開の醍醐寺本を調査することの学問的意義が大きいことを,あらためて予想させられる。覚禅以後の『覚禅齢、』が,広く書写され流布したことは,中世小野流の定型性が浸透することであるが,一方,それ自体が法流の重書として特別視されていった。南北朝時代のものと推定されている醍醐寺文書中の某書状案(『大日本古文書』醍醐寺文書之六,1035号)には,一,百巻抄己下灰ノ中ニ交ヲ取カクシ.運移候し,(以下略)とある。南北朝の政治的対立にからんだ聖教の争奪に関する文書とし,緊張感あふれる表現だ,と指摘されている(笠松宏至『中世人との対話J東京大学出版会,1997年,136ページ)。この「百巻抄jこそ『覚禅紗』である。少なくとも中世では,広汎な書写と流布は,稀少性の減少による価値の低下にはいたらなかったものと想像される。むすび現時点で確認しておくべきことは,概略次の五点である。更なる膨大な作業量への指針を得る目的で,列記してむすびとしたい。本の調査研究は不可欠である。その際,『覚禅妙』以外の覚禅書写聖教をも対象とすべきである。な関係にある。の立場によるものであって,史料批判という文献史学の常道を踏まない訳にいかない。料である。についての文献学的研究は不可欠である。参加者名上川通夫(代表者)伊藤俊一井上ー稔上島享大原嘉豊① 二種の公刊本の絶対視を戒め,相互の史料批判や独自記事の探査を目的に,諸写② 藤末鎌初・内乱期に固有の国家史的枠組や中央政治構造は,『覚禅紗』成立と緊密③ 『覚禅齢、』から知ることのできる歴史的情報は院権力を背後にもつ真言宗中枢部④ 中近世の諸写本の奥書から知りうる情報は,時系列的・地域空間的な考察の新史⑤ 日本史研究・美術史研究・密教学研究等の可能性を一層拡げるために,『覚禅妙』-207-
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