鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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1 )兎を追いかける犬サン・スヴェール写本のf.1〔図1〕には,複数の犬と兎が描かれているが,そのうちの一頭の犬は兎を追いかけているような姿勢で描かれている。「兎を追いかける犬」というモチーフは,天球図においてしばしばオリオン座とともに描かれた。たとえば,前章の第2群の写本の天球図〔図13,14, 15〕の下方にこれらの動物の描写が認められる。サン・スヴェール写本においては,犬と兎の体型の相違を的確に描写しようとする試みが認められるが,これらの天球図の描写においては,それぞれの動物の形態上の特徴の描写にはさほどの差異が認められない。しかも,これらの天球図の犬は首輪をつけていない。RI写本群のF1614, F 12957, S 902, S 250〔図9〕やハインリッヒ二世のマント〔図16〕の左側下方にも,細身で躍動感のある姿勢の犬の表現が認められる。ただし,則写本群の兎の表現に関しては,身体のプロポーションが不均衡であり,サン・スヴェール写本の兎の均整がとれた身体の描写とはまったく異なっている〔図10〕。リモージ、ユで制作された写本群にも首輪をつけた犬の表現が認められるが,その描写は稚拙であり,サン・スヴェール写本における生き生きとした犬の描写とは比べものにならない。これに対して,F-12117写本のf.136の犬と兎〔図4〕の体型,姿勢,細部の描写に,サン・スヴェール写本中のこれらの動物の描写との類似性を見出すことができる。これらの挿絵においては,細身の犬とやや丸みを帯びた体型の兎がそれぞれ躍動感溢れる姿勢で描かれている。とくに注目されるのは,これらの動物の,胴体に引き付けた前足,後ろ足の裏側中央の突起,腹の部分のくびれ,上方に反った尻尾などが微妙な線描の動きで描写されている点である。しかも,犬には首輪が描かれている(V-309写本においては,犬はさらに細身の体型で,兎の首と頭の分節も不自然であり,F12117 写本におけるこれらの動物の描写との相違を示している)。サン・スヴ、エール写本のこの挿絵を描いた画家は,おそらく,本項の最初に述べたような,オリオン座とともに兎と犬が表現される星座図像の伝統について何らかのかたちで知る機会があり,それ故,ここに述べたような兎を追いかける犬のモチーフをこの挿絵に取り入れるにいたったのではなかろうか。しかしながら,その制作にあたっては,F-12117写本中のこれらの動物の描写に類似した挿絵をモデルとして使用した可能性が高いと考えられる。237

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