鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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4-(1) 宮廷内における宣官の職務たが,明朝は特にその勢力著しかった王朝である。明太祖が建国にあたり,漢・唐以来の宰相制をやめ独裁制にきりかえたことが,のちに側近政治をうみ,官官の権力を高めるに至ったのである。詳しいことは宜官研究の著書に譲るが(注12),そもそも明初太祖・建文帝の時代においては宜官は亡国の素因として危倶され,政治関与は厳禁されていた。それが永楽帝即位の政権交代から事情は一変して宣官は重用されるようになり,特に武宗正徳期は権力をほしいままにし,その弊害甚だしかった時代である。宣官の勢力は,その権力のもと私腹をこやせるすべての分野に広がり,貿易を司る市舶司は勿論,磁器焼造の景徳鎮にも及んで、いる。明朝における宜官が,景徳鎮焼造とどのように関わっているか,以下に見て行くこととする。宜官は一般の官吏には出入りの許されなかった紫禁城の中に居住し,皇帝の公私にわたる用件を果たしていた。広大な紫禁城内にあって,膨大な数の官官は様々な職務を持っていた。明の制度では,宣官の職務はその所管の内容から十二監,四司,八局に分かれており,それを総括して二十四街門(役所)という。その中には,皇帝使用の調度品・器皿を製作する御用監,宮廷内の食事・宴会を司る尚膳監,皇帝の象徴である皇帝使用の印を製作・管理する尚宝監などの役所がある。すなわち宮廷内において,宣官は皇帝の使用するあらゆるものを管理・製作し,果ては皇帝の象徴たる印の管理も掌中に納めていたわけで,換言すれば,官様式は宣官の掌中にあったといってよかろう。4 (2) 明代官窯の監陶官について宣官の職務は紫禁域内の役所で果たされるだけでなく,その役所から地方に派遣されて任務につく場合もあった。景徳鎮官窯の監陶官はその一つである。紙面の都合上,ここに原典を載せる余裕はないので,詳細は別稿に改めることとするが,官窯監陶官についての記録を,『明史』『明実録J『国朝典葉J『浮梁県志』『江西大志』『陶説Jなどの文献資料に求めてみると,各帝治下の状況として以下のようなことがわかる。洪武(136898)・永楽(140324)はまだ官窯が景徳鎮に設置されていなかったと考えられる頃で記録は見られず,記録上で宣官が官窯に関わるようになるのは,宣徳(1426-35)からである。宣徳以後,一時的に中断されることはありながらも,宣官は監陶官として景徳鎮に大きく関わっている。正統(14361449)では景徳鎮の御器焼造に関し,置官の発言力が大きかったことを伝える史料が見られ,成化(146587) 252

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