4-(3) 置官とイスラームの関連では,御器焼造の増加のため宣官派遣が非常に多かった上,費やした費用も莫大で、あったことが記されている。成化のそうした状況下,景徳鎮における宣官の横暴を伝える記事もまた見られる。弘治(14881505)では,民の負担軽減もあってか,しばしば宣官派遣が中断されているが,正徳(150621)では再び宣官派遣の記事が数多くみられるようになる。正徳でも官官派遣廃止の要請が見られるが,聞き入れられてはいない。この正徳を境に,嘉靖(1522-66)から景徳鎮の管理体制は変化する。宜官派遣が廃止され,代わって鏡州府の地方官に焼造管理がゆだねられることになるのである。その背景には径役制度の変化ということもあるが,世宗嘉靖帝の初期に官官が排斥されるようになったということも関わっていると思われる。明初年から嘉靖までの景徳鎮管理をまとめると,明代官窯の監陶官には宜官が任務についた場合と地方官吏が任務についた場合とがあり,文献から正徳までは官官が監陶官をつとめることが多いが,次代嘉靖以後は,地方官が務めるようになったことがわかる。宜官も地方官もともに皇帝に対して責任を負っているが,官官が皇帝と直結しているのに対し,地方官は聞に工部を通さねばならない。実際に遺る作品と照らしてみると,景徳鎮は地方官にその管理を委ねられてから民様式を大きく展開させ,嘉靖・万暦様式を開花させたということになる。佐久間重男氏によれば(注13),官窯の人的構成について,御器焼造の総監督として派遣された管廠総事の配下は,若干の行政事務担当者を除き大多数は直接生産に従事する手工業者であった。即ち,総監督である中央派遣の官官の下に直接陶工が従事していたことになる。室官の意向が磁器生産に直接反映されたであろうことは想像に難くない。ベルトホルト・ローファーによれば,1605年から1606年に中国に渡来した西方のイスラーム教徒AliAkbarは,中国の見聞記阻iitaiNameにおいて,明朝宮廷における宣官の多さ,そしてその多くがイスラーム教徒であると記しているという(注14)。イスラーム教徒の中国渡来の歴史は長いが,イスラームは仏教と異なり,唐代に渡来して以来中国人の間に積極的布教を試みた形跡がないのが特徴である。むしろイスラーム商人を通じての商業活動の方が活発であり,宗教的浸透意欲は非常に希薄である。その商人的性格上,イスラーム教徒は唐代当時南海貿易の中心地であった広州に数多く居留していた。興味深いのは,唐代に群をぬいて中国宮廷の宣官供給地となったのは,こうしたイスラーム商人の集まる福建省,広東省,広西省であった。宜官使用に関し-253-
元のページ ../index.html#263