5.アラビア文字文青花の後期輸出手への影響中国とならぶ需要因であったイスラーム圏の商人たちの流入によって,各地・各人種の宜官ももちこまれ,中国の人買い業者も買い出しにやって来たと考えられる(注15)。このあたりから既にイスラーム系の宣官は始まっている。重用されるようになったものも多く,永楽帝治下海外に大艦隊を進めて遠征を行った鄭和はその一例であった。イスラーム系の宮官鄭和は第四次以降の遠征において中近東まで艦隊を進めているが,このとき下賜品として中近東の金属器を模した青花磁器を焼造させており〔図19・20〕,それらは現在トプカプ,アルデビルなど中近東各地に伝世している。磁器は中国独特の産物であり,商業的にも政治的にも利用価値のあるものであった。対外貿易を規制した市舶司や景徳鎮焼造を管理した監陶官などの職務を掌握していた直官にとって,それらは自らの利益・権力維持に充分利用しうるものであった。置官の景徳鎮への関わり方は,正徳から嘉靖にかけて大きく変化する。嘉靖においては,官官はもはや景徳鎮の焼造に関し実権を持たなくなる。アラビア文字を装飾文とした文房具は,富官がその意思を磁器焼造に反映させることが可能であった正徳において,御器ではないが宮廷御用のもの,紫禁城居住のイスラーム系の権力者の求めたものとして焼かれたのではないだろうか。そこに付された六字銘が,元末・明初以来の伝統的官様製品と共通しているという現象は,彼らの権威主張の表われとも見える。そしてこの装飾意匠は,宣官に外交や市舶司にたずさわる者が多かったこともあり,輸出用のものにも適用されたと考えられる。最後に,以上に見てきたアラビア文字文装飾の青花が後期に及ぼした影響について触れ,その位置付けを行いたい。アラビア文字文青花は正徳一代限りでその姿を消してしまうが,景徳鎮窯業に大きな足跡を残した。後期輸出手の意匠の基盤を築いたと考えられるのである。イスタンブールのトプカプ宮殿には明時代も初期から後期まで各時期の中国陶磁が収蔵されており,様式の変容をみるには好資料といえる。15-16世紀の民窯製品の大盤には,元青花の影響が色濃く残っている。余白なく描きつめた表現法や,孔雀文,魚藻丈〔図21〕,麟麟丈,牡丹文あるいは如意頭枠を用いた意匠のものなど元青花をオリジナルとするものが多い。そうした輸出用民窯製品における元青花の威光を追ったような作風に変化が生じるのが正徳期であり,以後後期に向けて新たな民窯意匠が展開していく。ア254
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