⑩ 太平洋画会の彫刻家たちについて研究者:成城大学大学院博士後期課程修了田中修一くはじめに〉1902年(明治35)1月に成立し,同年3月に第l回展を開催した太平洋画会は,1889年(明治22)に創立された洋風美術家団体明治美術会の後身であり,1896年(明治29)に明治美術会に対抗するかたちで発足した黒田清輝らによる白馬会とともに明治後期における日本の洋風美術をリードした団体であった(注1)。白馬会と太平洋美術会は(後者の前身である明治美術会もふくめて)主に洋画家たちが中心となった団体であったが,洋画家たちに比べれば数は極端に少ないものの,当時の日本を代表する洋風彫刻家たちも所属していた。とくに留学から帰国したばかりの彫刻家新海竹太郎が第l回展から参加した太平洋画会では,1904年(明治37)に設立された研究所から多くの若い彫刻家たちを輩出した。その中には朝倉丈夫や藤井浩祐,石川確治,堀進二,中原悌二郎,戸張孤雁らがおり,彼らは同会の展覧会を発表の場としながら,その後近代日本彫刻を語るうえで欠かせない重要な足跡をのこしたのである。なかでも計10回の展覧会が開催された明治期におけるこの会の活動は,官立の東京美術学校以外に本格的な洋風彫刻家を育てる教育機関のない状況の中,若い人びとに彫刻を学ぶ場を与え,また1907年(明治40)に始まる文展以外ではほとんど唯一の洋風彫刻が展示される大規模な展覧会を開催して,近代日本彫刻史におけるその存在意義はきわめて大きなものであった。本論では会の活動の初期にあたる明治期に焦点を当て,太平洋画会が発足した初期からその会員として活躍した新海竹太郎と北村四海という2人の彫刻家についてその活動を会の動向とともに考察し,そのうえで彼らが育てたともいえる次の世代の彫刻家たちについてその彫刻制作に与えた太平洋画会の影響を中心に論じていく。〈新海竹太郎と北村四海〉太平洋画会の彫刻家としてはまずはじめに名前のあがる新海竹太郎(注2)は,1902年(明治35)1月,ほほ2年にわたったヨーロッパ留学から帰国してすぐに最初の彫刻家の会員として入会し,その後の10年間つねに彫刻のほうでの中心的存在として精力的な活動を行なった。それは自身の作品制作のみならず若手彫刻家たちの教育にも266
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