いえることで,従来の美術史研究ではあまり重視されてこなかったことではあるが,明治後期に新しく登場した彫刻家たちの活動の基礎に,新海の存在を考えることはきわめて重要である。新海は山形の仏師の家に生まれ,その後上京して軍人を志したが,在隊中にたまたま馬の像を作ったことがきっかけで本格的に彫刻の道に進んだ人物であった。彼は仏師の修業をしていたときから木彫を学んだが,1896年(明治29)に〈北白川宮能久親王銅像〉の制作を委嘱されたのち浅井忠からデッサンを,ラグーザの教え子である小倉惣次郎から塑造を学んだ。このことははじめての大作を手がけるにあたっての彼の意欲を示すものといえるが,また彼の友人である米原雲海ら木彫家たちも同時期に小倉から塑造を学んでおり,木彫界全体が新たな表現方法を求めていた時代の動向の中でのものであった。その後彼は1900年(明治33)にパリで万国博覧会が開催されるのを契機に留学を果たし,数ヶ月間パリで過ごしたのち経済的な理由もあってベルリンに行き,翌年の11月まで彼地で勉強した。ベルリンではネオ・バロックの彫刻家へルター(ErnstHerter) についてアカデミックな彫刻を学んだが,彼の彫刻に対する関心は師の作風にとどまらず,エジプト彫刻などの古代美術やヨーロッパの古典的なものから最新の動向にいたるまで幅広いものであった。当時の彼の書簡では,ヘルターは「|日派の棟梁jであるが今後はロダンをふくめた「新派」の彫刻家たちの作風が拡がっていくであろうことが指摘されている(注3)。このベルリン留学ののち1902年(明治35)1月に帰国した彼はすぐに太平洋画会に入会し,同年3月の第l回展に彫刻家としてはただl人出品した。このときの作品は,〈婦人〉〈ジアナ〉〈シヤピー氏作風〉〈ロチー氏作風貨幣元型〉〈ジユピース氏作風〉〈シヤプラン氏作風〉〈シヤルパンチエー氏作風〉〈少女浮絵ノ凹型〉など計10点であり,その題名からも彼がこの展覧会にヨーロッパで学んだことの成果を発表したことが見てとれる。その後彼は第2回展(1903年)に〈太陽〉〈婦人〉,第3回展(1904年)には〈賄賂〉ほか3点,第4回展(1905年)には〈音楽〉〈魔力〉ほか2点,第5回展(1906年)には〈人魚、〉〈好的々々〉とそれぞれ意欲的な作品を出品したが,明治30年代後半に制作されたこれらの作品はどれも留学後の彼の新しい試みを示すものであった。留学中,ヨーロッパの彫刻作品を見て「図柄は裸体に非ざる限りは十中の七八迄は神話警輪等-267-
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