。。つωより出でたるもの、如し」(注4)という感想、をもった彼は,1904年(明治37)の〈賄賂〉で当時の日本で大きな騒動を引き起こした教科書採択をめぐる全国的規模の贈収賄事件を,「捧猛凶悪」なライオンの顔をもっ裸体の男性像が教科書を踏みにじる姿によって表わした(注5)。翌年の〈音楽〉〔図1〕は,カノーヴァの〈ヘベ〉を想わせる竪琴を弾く女神の姿を表現したものであったが,それははじめ〈平和の神〉と題される予定で,これもまた日露戦争の最中であった当時の日本の状況に対する作者の考えが表わされた作品だったのである(注6)。これら明治30年代の太平洋画会展に出品された新海の作品が留学での成果を実作にいかしたものであったのに対して,40年代に入ると彼は西洋以外の彫刻表現を自らの作品に取り入れ,新たな主題に積極的に取り組むなどさらに独自の彫刻表現の可能性を探求していった。たとえば1911年(明治44)の第9回展に出品した〈桃太郎〉は日本の昔話をアッシリアのレリーフの様式によって造形化したものであった。また翌年の第10回展に出品した〈職工〉〈大に得意(素人義太夫)〉〈靴磨き〉〈日曜日〉〈こずえる手先ふところに(梅川忠兵衛)〉など自ら「浮世彫刻」と呼んだ作品群は,彼の彫刻の個性を最もよく表わしているものといえよう。この「浮世彫刻」とは,新海自身が作品解説もしている「新試作『浮世彫刻J」という文章によれば,裸体作品がほとんどの彫刻界の現状にあきたらず「先づ第一に彫刻の範囲といふものをもう少し広めて見たい」と考え,かっ「最も新傾向を現はして居るロダンの真似のやうだとさへ言はれるやうな気使ひのない」もので,「現代を現はすやうなものを一つ作って見ゃうと思って着手した」ものであった(注7)(ただしそうした彼の姿勢はすでに1906年の〈好的々々〉などから見られるものである)。たとえば〈大に得意〉〔図2〕では会社の重役が部下を集めて自分の義太夫を聴かせたところ,部下のほうはご馳走や月給のことを考えてしきりにおだて,重役は調子に乗って最後には湯呑みをひっくり返している光景を表現し,人間の性質や日常の人間関係について鋭い視線を投げかけている。以上のような新海の彫刻表現の展開は,後述するように彼に太平洋画会で彫刻を学んだ若い彫刻家に対しても少なからず影響を及ぼすものであった。それは現在の美術史においてはほとんど指摘されていないことではあるが,その影響を見失なってしまったこと自体に日本における近代美術史の問題点も隠されているとさえ考えられる。一方,新海とともに初期の太平洋画会に会員として参加したもう一人の彫刻家に北
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