鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
279/759

nhu 村四海(1871〜1927)がいる(注8)。彼は1871年(明治4)にいまの長野市に生まれ,宮彫師の父について彫刻を学び,若いころには寺社の堂宇の彫刻などを手がけた。その後彼は東京で西洋の彫刻技法を学ぼうと数度上京し,1896年(明治29)には実業家安田善次郎の支援を得てアトリエをもち,小倉惣次郎に洋風彫刻を学んだ。1900年(明治33)に彼は新海よりも一足遅れてパリへ向かい,パリではともに夜学に通った。新海は6月の末にベルリンへと向かうが,北村はそのままパリにのこり,象牙彫刻の制作で資金を稼ぎながら「チウオルヂウ・パローJというフランス人の彫刻家の「弟子分となって勉強」し,その紹介で建築装飾の石彫の仕事などをした(注9)。しかし翌年の夏に重い病を得た彼は帰国を決心し,1902年(明治35)はじめに帰国の途につく。帰国後彼はl年ほど故郷で身体を休め,翌年の3月再び上京して,象牙彫刻などで資金を得ながら彫刻家としての活動を再開していった。彼が太平洋画会に入会した正確な時期はわからないが,1906年(明治39)春の第5回展には出品を予定していたという(それ以前の第l〜4回展には出品していない)。その作品〈霞〉〔図3〕は結局展覧会に間に合わず,翌年の春に開催された東京勧業博覧会に出品された。このとき北村は審査の不明瞭さを批判して自らの作品〈震〉を打ち壊し,会場から引き上げ,美術界に一大騒動を引き起こすこととなった。その後北村は文展・帝展や太平洋画会展に主に大理石製の女性像などを出品し,その素材をいかした柔らかな表現力で自らの作風を確立し,一方で新海とともに太平洋画会研究所彫塑部の初代教授として後進の育成に力を尽くした。太平洋画会の洋画家中村不折が「新海君は男性的で君は女性的の技芸に其妙技を顕はし」たと評したように(注10),新海とともにいわば彫刻部門の車の両輪として初期の太平洋画会を支えた彫刻家であった。く太平洋画会研究所に学んだ彫刻家たち〉新海竹太郎と北村四海という2人の新帰朝彫刻家を迎えた太平洋画会では,冒頭のほうで述べたようにその研究所で多くの若手彫刻家たちが学び,官立の東京美術学校とともにその後の日本彫刻界を支える人材を数多く輩出した。太平洋画会に研究所が設立されたのは,1904年(明治37)6月16日のことであり,そこにはまず朝倉丈夫(1883〜1964)〔図4)'藤井浩祐(浩佑,1882〜1958)〔図5〕,石川確治(1881〜1956)〔図6〕らが学びに来た。もっとも開設当初の研究所は谷中清

元のページ  ../index.html#279

このブックを見る