鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
280/759

水町の普通の住居を利用した仮のものであり,彫塑部はまだなく,彼らもそこで主にデッサンを学んだようである。当時東京美術学校の彫刻科に在籍し,そのかたわら「絵画によって彫刻の基礎を学びとることを考ぇJ研究所に通っていた朝倉は,その様子を「八畳間と長四畳,さらに六畳間があり,その八畳と長田畳を打通しにしてモデル台と大きなランプをつけ,それをとりまく一人一人がみな頭の上にランプをつって,総員三十人ぐらいでデッサンを描いていた」と回想している(注11)。つまりそこでの教育は絵画のみであったが,しかしほかの回想によれば「新海君なんか近いと云ふので殆んど毎晩来て居った,来て描きはしないけれども皆連中と話をしたり,頻りとさう云ふ気分に浸って居った」(注12)といい,彫刻に関する話題も繰り広げられたことであろう。仮研究所が開設された翌年の1905年(明治38)11月3日,谷中真島町に新しい建物が落成し,研究所はより本格的な活動を開始した。ただしその彫塑部は,当時の雑誌に「彫塑教授の担当」を評議中と報じられており(注13),まだ独立した部門にはなっていなかったらしい。研究所彫塑部が正式に開設された時期についての具体的な記録は見出せなかったが,1908年(明治41)4月5日発行の『美術新報J第7巻第2号に「過般来塑像部を新設したるが担当教師は新海竹太郎,北村四海両氏なり」という記事があり(6頁),このときまでに新設されていたことが知られる。翌日09年(明治42)9月には研究所にl棟を新築して彫塑場にあて,さらに本格的な教育が行なわれることとなった。また1908年(明治41)3月にはフランスから荻原守衛(1879〜1910)が帰国したが,その年の4月5日発行の『美術新報J第7巻第2号には彼が5月から太平洋画会研究所彫塑部の主任教授になると報じられている(7頁)。これについてはそれを裏付ける資料がなく,おそらくは彼の病気のこともあって実現はしなかったのであろう。しかし彼は翌年の第7回太平洋画会展に作品を出品し〔図7〕,その後同会評議員に選ばれている(注14)。荻原はその後の彫刻界に絶大な影響を与えたが,その彼を受け入れたのが太平洋画会であったことは十分に考えるべき点であろう。彼は留学前,明治美術会の洋画家小山正太郎が主宰する画塾不同舎で学び,そのとき一緒に学んだのが中村不折,満谷国四郎,吉田博,中川八郎,石川寅治,小杉未醒,高村真夫らのちに太平洋画会で活躍する洋画家たちであった。もちろんロダンの彫刻によって荻原に一大転機があったことはまちがいないとしても,その基礎に太平洋画会の方向性と同様のも270-

元のページ  ../index.html#280

このブックを見る