のがあったことも忘れてはならない。荻原が帰国し,日本の彫刻界にロダンの作風が広く紹介されるようになった明治40年代に研究所彫塑部に学んだ若手彫刻家としては,堀進二(1890〜1978)〔図8〕,中原悌二郎(1888〜1921)〔図9〕,戸張孤雁(1882〜1927)〔図10〕らがあげられよう。当時の研究所の様子については現在『珠山美術館報』に連載されている堀進二の日記に詳しいが(注15),それによれば研究所では生徒が自分たちで制作を進めていくことが多く,新海や北村はたまに作品の批評をするといった指導であったらしい。しかしそこでは新海が堀に全身像を作ることをすすめているように生徒それぞれの実力に沿った指導が行なわれており,また堀や中原らが新海の自宅を訪ね,分離派の彫刻やロダンの作品集を見せてもらったり,東洋美術の古代彫刻の話,建築の話などを聞いていることは興味深い事実である(注16)。つまり堀ら若い彫刻家たちにとって,新海は彫刻についての古代からロダンにいたる様々な情報を教えてくれる存在だ、ったのである。くむすび一一太平洋画会の彫刻の特色〉太平洋画会が明治期に聞いた10回の展覧会における彫刻作品の出品数を比べてみれば,それがしだいに充実していく様子は一目瞭然である。1902年(明治35)の第1回展では新海l人が10点を出品したが,その後第2回展(1903年)2点(新海のみ),第3回展(1904年)4点(同),第4回展(1905年)9点,第5回展(1906年)4点,第6回展(1908年)7点,第7回展(1909年)7点,第8回展(1910年)20点(「故荻原守衛遺作陳列室j出品作はのぞ、く),第9回展(1911年)30点,第10回展(1912年)42 点であり(注17),同会が近代日本彫刻の発展に寄与した貢献の大きさがうかがわれる。しかしそこを活動の場とした彫刻家たちの当時の作品を見ていくならば,同会の意義というものがそうした数の問題だけではなく,日本における近代彫刻の造形性に関わっていることがわかる。その最も特徴的なこととしては,すでにこれまで幾度も論じられてきた荻原守衛をはじめとするロダンの作風の積極的な導入があげられよう。それが主に太平洋画会の彫刻家たちを中心に行なわれたことはもちろん,その際,彼らの活躍する場を用意した会全体の方向性,彼らを育てた新海らの役割を十分に認めるべきであろう(注18)。ただしそのうえで私たちはさらにロダンの影響の強さによって隠されてしまっているともいえる同会の彫刻作品の傾向を見出すべきではないだろうか。
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