注(1) 明治期における太平洋画会の活動についてはJ展覧会の回顧』柚木久太・高橋虎をt旨t高できるのである。そのうちで最も重要なもののlつが,新海竹太郎の「浮世彫刻」が示す主題と表現性の個性的な追求である。新海は自分たちが生きている「いま」という時代を見据え,そこに繰り広げられている日常的な人間の生きていく姿に彫刻として表現すべきものを見出した。この彫刻家の姿勢と視点は,藤井浩祐の〈トロを待つ坑婦>(1914年)〔図5〕や石川確治の〈子守>(1911年)〔図6〕,戸張孤雁の〈足芸>(1914年)〔図10〕に見られるように研究所に学んだ彫刻家たちにも共通するものであった。それは小杉未醒が日露戦争を取材して負傷したロシア兵を描いたことや,満谷田四郎の〈車夫の家族>(1908年)など同会の洋画家たちの視点とも重なり,一概に新海の影響ということはできないが,それで、も彫刻表現における1つの方向性がそこに芽生えていたことは注目に値するものであり,そこから朝倉丈夫の〈墓守>(1910年)〔図4〕や堀進二,中原悌二郎の人物表現〔図8'9〕が生まれたと見ることもできょう。すなわち,彫刻家が社会的なものもふくめた現実を直視することによって日本の「現代を現は」そうとする表現意欲が,太平洋画会を中心に近代日本彫刻史において育まれていたこと* 今回の調査にあたっては,新海竹太郎の孫に当たられる新海嘉氏,堀進二の教え子の彫刻家後藤信夫氏,東京国立文化財研究所から多くの資料を提供していただいた。之助編著(太平洋画会,1929年),『創立三十年記念記録』高橋虎之助編著(太平洋画会,1932年)および当時の『美術新報』の記事を参照した。太平洋画会成立の経緯については,とくに戦後になるとその詳細についてほとんど語られることがなく,文献によってその成立は1901年(明治34)11月と翌年1月の2通りに記述され,明治美術会との関係についてもはっきりとは書かれないことが多かった。しかし上記の太平洋画会が発行した2つの文献によれば,まず1901年11月21日に聞かれた明治美術会の臨時総会において規則が改正され,新たに13名の会務委員を選出して組織が一新され,翌年の1月に太平洋画会と改称したのであった。また『創立三十年記念記録Jには,明治美術会時代の資料が多数掲載されており,「年表」は明治美術会創立から始まっていて,あくまでも明治美術会から連続する272
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