鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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(2) 新海竹太郎については,新海竹蔵撰『新海竹太郎伝.I(新海嘉・新海竹介,1981年),(3) 大村西崖「芸苑鏡舌十六伯林の近信」(新海の大村宛書簡の抄出)『東京日日新聞J(4) 「新海竹太郎氏の書簡」『美術時報』第l号(1901年[明治34]5月)6頁。(5) 『美術新報J第2巻第12号(1903年[明治36]9月5日)7頁。(6) 『美術新報』第3巻第23号(1905年[明治38]2月20日)7頁。(7) 新海竹太郎「新試作『浮世彫刻J」『書画骨董雑誌』第47号(1912年[明治45]4 (8) 北村四海については,北村正信編「北村四海略伝」『四海余滴』(北村正信,1929(9) 前掲「北村四海略伝J9〜10頁。(14) 『美術新報』第8巻第9号(1909年[明治42]7月20日)6頁。(1力出品作品数については,第l〜4回展は展覧会カタログ,第5回展は東京国立文(18) 『生誕100年記念中村韓・中原悌二郎と友人たち』展覧会図録(茨城県近代美術館ものとしての意識が会員たちの聞に明確であったことはまちがいない。拙論「新海竹太郎論J(成城大学大学院文学研究科1998年度博士論文)。1901年(明治34)7月9'11, 13日のうち13日の記事。月)25, 27頁。年),八代修次「北村四海」『新潟県人物群像5究』(新潟日報,1989年)。同前掲『四海余滴』7頁。ω 朝倉丈夫「私の履歴書」『朝倉丈夫文集彫塑余滴』(朝倉彫塑館,1983年)285頁。ω 「回顧座談会j前掲『展覧会の回顧』53頁,石川寅治の発言。それにつづいて石井柏亭が「新海君が彫刻の話をチヨットしたことがあるがあれはあすこだったかネ,仮研究所の方だったかも知れぬ彫刻の話をしたことがある」と発言している。同『美術新報』第4巻第四号(1905年[明治38]12月5日)6頁。同「堀進二懐中日記」『珠山美術館報J第17号(1996年)〜現在連載中。同向上,1911年(明治44)1月24日(第四号[1997年J. 35頁)' 1910年(明治43)9月17日(第17号.36頁),同年9月29日(同.38頁)の項など参照。化財研究所所蔵の「明治大正美術資料」調査記録,第6' 8 ' 9回展は出品目録(第9回展については推定も含む),第7回展は『美術新報』第8巻第9号(1909年[明治42]7月20日)5頁,第10回展は同年の『日本美術年鑑Jに拠った。ほか,1989年)の「年表」によれば,1911年(明治44)に中原が太平洋画会の月謝が払えなくなったとき新海の好意により免除されたという(170頁)。-273-

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