注Tradition und der modemen Zivilisation)ということばで語られる。しかしこの一文が発( 1) 拙稿「ブルーノ・タウトの熱海旧日向別邸」『武蔵野美術大学研究紀要』No.28(2) 設計経緯については,次の文献を参照した。日向邸の竹や桐などの素材,また同作品内におけるタウトの解釈による日本間も同様の意図の結果と判断される。典型的なモダニズム建築を回避するために,タウトが積極的に取り入れた民族的なモチーフ,これらの表現こそが,日本トルコ両国において外国人趣味,もしくは浅薄な文化理解と評されたものでもあった(注9)。日本とトルコにおけるタウトの作品に対するこの評価は,欧米を範として進められた後発の国の建築における近代化が,モダニズム建築に絶対的な規準を置くものであった当時の状況を物語っている。その一方で,自国の建築文化との折り合いを見いだせない苛立たしさが,タウトの建築作品に向けられた批判であったと理解することができる。しかし民族を特徴づけるモチーフに対するタウトの積極的な姿勢は,亡命によって異国文化に接した刺激によるものではない。タウトが日本へと亡命する1933年以前に,すでにタウト自身によって重要な課題として意識されていたものである。1929年の著作『ヨーロッパとアメリカにおける新しい建築芸術』の結ぴには,この意識について次のように述べられている。「ヨーロッパの様式を強引に押しつける時代はすでに過ぎ去った。これからも続いていくのは,ジャワ人,インド人,中国人,日本人などによってつくられてきた建築である。すなわち建築それぞれの自主性である。(中略)この大地はさらに豊かになっていくはずである。なぜならば,大地の精神が,建築のなかに,そして建築のなかから語りかけるからである」(注10)。この理念は,後に「古い伝統と新しい文明との統合」(dieSynthese zwischen der alten 表された1929年から日向邸を手がける1934年まで(竣工は1936年),タウトは理念を実現する機会には恵まれていない。さらに前述のように,日本の日向邸は外観のない内部空間のみの作品であった。ゆえにトルコにおける最初の建築作品である文学部棟は,タウト晩年の建築理念の最初の実現例と考えられるのである。1997 pp.71 80 283
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