『看聞日記』所載の藤原行光筆「泰衡征伐絵」をめぐって—⑫ 初期土佐派の研究研究者:東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程高岸はじめに本稿では,初期土佐派研究の一環として,土佐派の祖と目される藤原行光が制作したことが『看聞日記』に記される「泰衡征伐絵」をとりあげる。本絵巻の現存は確認できないが,南北朝時代の『後深心院関白記』,室町時代の『康富記』,『綱光公記』にもこれに相当すると思われる絵巻の記事が見える。新たにこれら四つの史料を総合的に検証し,同絵巻の主題と南北朝期の時代背景とを照らし合わせることによって,草創期の土佐派の活動基盤をより明確に捉えることが可能となると考える。藤原行光の名は,近世においても著名であり(土佐行光と称されることが多い),行光筆の伝承を持つ作例も多いが,その実態は十分に明らかになっているとは言いがたい。本稿は主として史料の分析から,その活動の一端を明らかにしようとする試みである。はじめに現在知られる藤原行光の活動を確認しておきたい(注1)。『賢俊僧正日記』文和4年(1355)2月1日条には,北朝の行宮であった近江の成就寺に「絵所越前守将監」が参じたことが記され,これは行光のことであると考えられる。この三年前,『園太暦目録』の文和元年(1352)9月16日条には絵所預の綸旨の記事があり,これは行光に対するものと見られる。行光の宮廷の絵所預の料所に関しては,『土佐文書』延文5年(1360)12月2日付,および貞治2年(1363)正月28日付文書に「絵所越前守行光」が丹波国大芋社の押領を訴えた記事が見える(注2)。後に応安4年(1371)8 月28日に「絵所刑部少輔行光」はこの大芋社の祭神を屋敷内に勧請している(『吉田家日次記』)。作品制作に関しては,貞治5年(1366)4月19日に「絵所中御門越前守藤原行光」が八幡極楽寺本尊の足利義詮等身大の来迎坐像を安置した際に仏師院慶とともに下向し御堂の荘厳を行なったこと(『石清水八幡宮記録』),中御門宣胤が所持する貞治6年(1367)3月29日の足利義詮参加の中殿御会を描いた屏風について,土佐光信が「当時絵所光信朝臣先祖光行(行光の誤りか)」が描いたと述べたこと(『宣胤卿記』永正14年11月27日条),貞治6年(1367)7月上旬に「絵所散位従四位上藤原朝臣行光」が「地蔵験記絵」六巻を大進法眼善祐と共作したこと(『看聞日記』永享10年6月7日条,このとき足利義教所持),応安元年(1368)4月15日の足利義満の元服に際して「絵所行光」が櫛手巾に図したこと(『鹿苑院殿御元服記』),応安3年(1370)6 輝所載-301-
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