月に「絵所行光jが内裏修造の安鎮不動法の本尊是陀羅を図したこと(『門葉記.l)が挙げられる。また,史料自体の信憲性に問題があるが『畠山記』康応元年(1389)12 めにより河内国の八尾・飯盛・龍泉の三城を描いた記事がありこれが現在知られるところの行光の活動の下限と考えられている。藤原行光の現存の作例としては「十王図」(二尊院蔵)が極めて有力である。その理由として,『実隆公記』長享3年(1489)5月7日条に,三条西実隆が宮中にて拝見した十舗の懸絵の「十王図Jについて「春日絵所行光百四五十年以前者云々Jと記しておりJ御湯殿上日記』の前日条には十巻の懸絵が二尊院からもたらされた事が記されているからである(注3)。この年から翌年にかけて,土佐光信は「十王図」(浄福寺蔵)を制作しており(『実隆公記』同年9月18日条,同図裏貼墨書),これは二尊院本と全く同図様であることから,おそらく行光が描いたとする実隆の記述は,春日絵所の絵師であった光信の言に基づくものと考えられる。上記のような活動から藤原行光は北朝や足利義詮・義満などの足利将軍家との密接な関係が指摘されておりこうした基盤の上に土佐派が成立した可能性が高い。1.『看聞日記.l.『康富記.l.『綱光公記』に記された「泰衡征伐絵J伏見宮貞成親王(後崇光院,1372〜1456)の日記である『看開日記』永享10年(1438)6月8日条には以下のような記述がある(注4)。「地蔵御絵返献。又十二神絵(畜類歌合)被下。電覧則返進。又九郎判官義経奥州泰衡等被討伐絵十巻給。室町殿被進絵也。殊更殊勝握翫無極。調参議拾遺行忠卿。絵所従四位藤原朝臣行光筆也。男共砥候覧之。行豊朝臣読調J(括弧内傍注)。また翌日,6月9日条には「絵覧之慰徒然。絵銘泰衡征伐絵也。大事之御絵之間念返進jとある。これらの記事によると,「室町殿」(足利義教)の所有する「泰衡征伐絵」十巻が貞成親王のもとへもたらされたことがわかり,おそらくその奥書を写したであろう記録から,詞書の筆者は藤原行忠,絵は藤原行光の筆(注5)になることがわかる。また,貞成親王の子貞常親王の侍読を務めた権大外記中原康富(1400〜1457)の日記『康富記J嘉吉2年(1442)12月3日条には「参伏見殿御読,欲退出時分,文治頼朝幕下被責奥州泰衡御絵十巻有之,被召出,自ー至五拝見之,読申調了,及昏黒之間退出,口(残カ)五巻不拝見無念,鎌倉方河村千鶴丸十三歳,為先懸七人之内,潜通畠山之陣前之由見了,泰衡方云々,別当子十月12日条には「絵師越前守行光入道閑楽jとその子「越前守光重」が,畠山基国の求-302-
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