鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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2.『後深心院関白記』に記された「泰衡征伐絵」(1332〜1387)の日記『後深心院関白記(愚管記)』延文4年(1359)5月15日条(注三歳,討死之由見了,殊勝之御絵也,jとあり,康富が伏見殿を訪れた際に「文治頼朝幕下被責奥州泰衡御絵j十巻のうち第一巻から第五巻を披見したことが記されている。さらに,広橋綱光(1431〜1477)の日記,『綱光公記』(『接綱御記J,r引接院内府記Jとも称する)宝徳元年(1449)9月6日条に,「晴。為番抵候。内裏入夜自室町殿御絵三盆被進為被御覧云々。一盆戚陽宮四幅月山筆。十二類絵三巻。義経絵十巻也。先十二類絵被御覧。菅宰相読詞。可謂希代之御絵也。後成陽宮御覧。彼是重宝近比見事。殊更戚陽宮御絵一段御物也。驚目斗也。太平記明徳記等被御覧。御不予猶々次第御盛由医師申入間珍重外無他云々。(中略)後聞自室町殿被進御絵共自禁裏為御慰被申云々。内々伝奏侍者持参菅宰相申次目六相副也。Jという記事があり,病中の後花園天皇を慰めるために禁裏は室町殿(足利義政)に絵の借覧を求め,「戚陽宮御絵」四幅・「十二類絵j三巻・「義経絵」十巻の三盆の絵がもたらされたことがわかる(注6)。この室町殿所持の「十二類絵J三巻と「義経絵」十巻は前述の『看聞日記』の記事において同日に貞成親王のもとに届けられた「十二神絵(蓄類歌合)」と「九郎判官義経奥州泰衡等被討伐絵J十巻とそれぞれ同ーのものを指すものと思われる。『看聞日記』に記された「九郎判官義経奥州泰衡等被討伐絵(泰衡征伐絵)J,『康富記』に記された「文治頼朝幕下被責奥州泰衡御絵j,『綱光公記』の「義経絵」は同じものを指すと考えて良いと思われるが,同様の主題の絵巻に関する記事が,近衛道嗣7)に以下のように記されている。「白武家密々送給後素一合,可見之由命之,鎌倉右幕下征伐泰衡之絵也,此絵最初,調可草給之由,先年以故賢俊僧正被示之間,任筆書遣了,f乃出来之最前被見之由被命之,殊有其興,追返進之由返答畢,J。その内容は,以下のように解釈される。室町幕府二代将軍足利義詮(武家)から近衛道嗣のもとへ「密々Jに一合の絵巻が届けられ,道嗣はこれを見るように命じられた。この絵巻は「鎌倉右幕下征伐泰衡之絵」と称するもので,源頼朝(鎌倉右幕下)が奥州藤原氏の泰衡を征伐するという内容であった。この絵巻は「最初j,すなわちこの時初めて企画されたもので,先年,道嗣は今は亡き醍醐寺三宝院の「賢俊僧正」を通じて詞書の草稿執筆を指示され,「筆に任せて書き遣Jわした。このために,道嗣は完成直後の絵巻を披見することを命じられた。絵巻は「殊にその興」あるもので,道嗣は義詮に追って-303-

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