鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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返進する旨を伝えた,というものである。この絵巻制作に深く関与した醍醐寺三宝院の賢俊は,この記事の前々年,延文2年(1357)閏7月16日に没していることから,この絵巻はそれ以前に企画され,少なくとも二年以上の歳月をかけて延文4年(1359)5月頃に完成したことになる(後掲,年尊氏の緊密な関係を考慮すると,絵巻完成の前年の延文3年(1358)に没した尊氏がその制作の主体(注文主)であった可能性が高い。この『後深心院関白記』に記された「鎌倉右幕下征伐泰衡之絵Jは,『看聞日記』の「泰衡征伐絵jの絵の筆者藤原行光,詞書を浄書した藤原行忠の活躍年代とも合致し,足利義詮のもとで完成した絵巻がそのまま足利義教,義政まで代々足利将軍家に伝えられたと考えられ,同じ絵巻を指すものと考えて間違いなかろう。上記の四つの史料を総合すると,「泰衡征伐絵Jは十巻で,近衛道嗣が詞書を起草,絵を絵所従四位であった藤原行光が描き,詞書は世尊寺流の能書である藤原行忠が染筆,延文4年(1359)に二年以上の歳月をかけて完成したもので,その制作には三宝院賢俊が関与したものであることが明らかとなる。次に,上記四史料に加えて,江戸期の画史類や現存絵巻模本を参考に,「泰衡征伐絵」十巻の内容について考察したい。第一に参考になるのは『康富記』の記述で,中原康富が「泰衡征伐絵jの第一巻から第五巻を披見したこと,残りの五巻を見ることが出来なかったことを「無念jであると記している点である。これに続いて「鎌倉方河村千鶴丸十三歳,為先懸七人之内,i替通畠山之陣前之由見了,泰衡方云々,別当子十三歳,討死之由見了jと記されることから,ここまでが康富の披見した部分であり,おそらく第五巻の末尾に当たると考えられる。ここで『吾妻鏡Jを参照すると,この部分は同書第九巻に記された文治5年(1189)8月8日から10日にかけての「阿津賀志山の戦いjの場面であることが判明する。これは奥州合戦最大の激戦で,藤原泰衡を大将とする奥州軍は現在の福島県北部の伊達郡国見町にある阿津賀志山に城壁を築き,泰衡の異母兄西木戸国衡を守将とするこ万騎を配し,泰衡自身はさらに北方の国分原鞭盾(現在の仙台市)に布陣した。頼朝軍は8月7日に国見駅に到着し,翌8日の早朝から合戦が始まった。この日の戦いで、頼朝軍の結城朝光は国衡軍の金剛別当季綱を表2参照)。また,本絵巻は義詮のもとで完成しているが,後述するように賢俊と足利3.藤原行光筆「泰衡征伐絵」の内容-304-

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